BOX190 2009年11月25日(水)放送    BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 何故クリスチャンも肉体的な死を迎えるのですか 茨城県 ハンドルネーム・チャボさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は茨城県にお住まいのハンドルネーム・チャボさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「いつも放送を楽しみに聞いています。
 ところで、一つ質問があります。アダムが罪を犯した結果、アダムは肉体的にも霊的にも死にました。そして、アダムの子孫はみな死ぬようになりました。
 ところで、私はクリスチャンなのですが、キリストの十字架を信じた結果罪を赦されました。そして、天国に入る希望を持っています。罪赦された結果霊的には死から命に移っていますが、どうして肉体的には死ななければならないのでしょうか。私の罪はもうないのですが。
 よろしくお願いします。」

 チャボさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。
 今回、チャボさんがご質問してくださったことは、そのまま形を変えて、テサロニケの信徒への手紙一の4章13節以下で語られているテサロニケの教会で起った問題に繋がっています。

 その問題とは、キリストを信じて洗礼を受けながら、キリストの再臨を前に死んでしまった人たちの問題です。

 テサロニケの教会では、キリストの再臨は自分たちが生きている時代に起ると考えられていたのでしょう。もちろん、キリストの言葉の中にも、使徒たちの教えの中に、はっきりとそのようなことが言われている箇所はありません。ただ、世の終わりがいつ起ってもおかしくはないほどに切迫したものであるという意識は使徒たちの教えの中にあったことは確かです。

 それで、テサロニケの教会では、世の終わりが来てキリストの再臨を迎えるまで、誰一人として死ぬ者はいないと、当たり前のように思われていたようです。ですから、現実に自分たちの教会員の中から死ぬ者が現われた時に、テサロニケの教会には大変な動揺が起りました。
 それは、キリストの再臨の前に亡くなってしまったクリスチャンたちは本当に救われていたのだろうか、という問題です。これは信仰を根底から揺るがすほどの大きな問題です

 そもそもこういう誤解が起ってしまったのは、チャボさんがきちんと理解してくださっているような、「霊的な死」と「肉体の死」との区別が、テサロニケの教会では明確に理解されていなかったからです。テサロニケの教会の人たちは、肉体的な死を迎えるということは、霊的に死んでいるからだと思われていたようです。言い換えれば、洗礼を受けながらも死んだ者たちは、ほんとうは救われていないからだ、と考えてしまい、希望を失いかけていたのです。

 残念ながら、パウロは、なぜ救われて罪赦された者が肉体の死を迎えるのか、そのことには一言も触れてはいません。
 ただ、キリストの再臨以前に眠りについた者には復活の希望があり、再臨の日まで生き延びた者は、空中に挙げられて再臨のキリストに出会う希望がある、とだけ語ってそれで十分としています。

 このテサロニケの信徒への手紙以外の箇所で、信者の肉体の死について触れられているのは、もう一箇所、コリントの信徒への手紙一の15章35節以下の部分です。 この箇所は直接的には「復活の体」についての議論ですが、その議論の中で、なぜ自然の命の体ではなく、霊の体、復活の体が必要なのか、という話になってきます。

 パウロはこう記しています。

 「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。」(1コリント15-36-37)

 現代科学に慣れ親しんだ現代人にはわかりにくい例えかもしれませんが、要するに、今ある肉の体は、死んで初めて霊の体に甦ることができるのだということです。

 ではなぜ、霊の体に甦る必要があるのかといえば、パウロはその理由をこう述べます。

 「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(1コリント15:50)

 つまり、神の国に入るために、朽ちる体から、朽ちない体へと変えられる必要があるからです。

 そして、その変えられるプロセスに関して、パウロは「あなたがたに神秘を告げます」と述べて、こう書き記します。

 「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(1コリント15:51-52)

 つまり、通常は死と復活を通して霊の体に変えられ、世の終わりまで生き長らえたものは一瞬のうちに変えられる、というものです。

 そうすると、肉体の死を迎えないままで一瞬に変えられるというプロセスの方が例外的で、通常は肉体の死を迎え、終わりの日に甦って朽ちない体・霊の体をいただくということなのです。この場合の死は、罪の支払う報酬としての死なのではなく、復活の体をいただくためのプロセスなのです。そういう意味で、同じ肉体の死ではありますが、罪赦されたクリスチャンが迎える死の意味はまったく異なるものです。

 ところで、宗教改革時代の人たちは、このクリスチャンの死の意味をどう捉えたのでしょうか。16世紀に書かれたハイデルベルク信仰問答の問42では、簡潔にこう記されています。

 問42 キリストがわたしたちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか。
 答 わたしたちの死は、自分の罪に対する償いではなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです。(新教出版社 吉田隆訳)

 わたしたちは自分の罪を償って死ぬのではありません。それはわたしたちに代わって既にキリストが十字架の上で死んでくださったからです。わたしたちはキリストと結ばれて罪に対して死に、永遠の命の入り口に立つのです。

 最後にテサロニケの信徒への手紙一の5章10節を引用して終わります。

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

 「目覚めていても眠っていても」というのは、肉体的な生と死を表す表現です。クリスチャンにとっては、肉体的に生きているときにも主と共に生かされ、肉体的に死んでもなお、わたしという人間は主と共に生きているのです。

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