BOX190 2009年8月5日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 何を食べるか心配するな、とは? T・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 山下先生、お元気ですか? そして番組をお聞きの皆様と皆でいつか天の国で喜びに包まれる日が早く来ますように。
 今日の質問ですが、マタイ6章31節に「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」とありますが、今の時代日本のような豊かな国ならともかく、アフリカでは食べるものがなく餓え死ぬ人、子供もたくさんいます。これはどうした事でしょうか? イエス様がいた時代はこの様な事はなかったのでしょうか? 今の時代に聖書は当てはまらない事もあるのでしょうか? 宜しくお願いします。

 T・Hさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。聖書についてのご質問、嬉しく思います。

 今回のご質問に出てきた聖書の箇所は、マタイによる福音書の6章25節〜34節に記された一まとまりのキリストの言葉の中の一節です。さらに文脈を広げて眺めてみると、マタイによる福音書5章から7章にわたって記される「山上の説教」と呼ばれる一連の教えの中の一つです。

 イエス・キリストは6章25節〜34節に記された一まとまりの教えの中で、「心配すること」「思い悩むこと」を取り上げています。
 心配したり思い悩んだりするということは、たくさんのことに心が向かい、考えや気持ちをまとめることができなくて、平安な気持ちを失ってしまうことです。そういう意味では、心配事や悩み事は文明がどんなに進んでも尽きるとは限りませんし、逆に、文明が立ち遅れている世界に生きていても、心を一点に向けて、平安な気持ちで過ごすことも可能です。その限りでは、イエス・キリストの言葉は文明の進歩や遅れに関わらず、どの時代、どの地域に生きる人にとっても真実な言葉だと思います。

 さて、いただいたご質問を何度も読み返してみましたが、ご質問の意味が二通りあるように思いました。T・Hさんがどちらの意味でご質問されたのか、はっきりと理解できませんでしたので、両方について取り上げることにしたいと思います。おそらく、どちらの疑問もありうる疑問だと思います。

 まず、一つの疑問はこう言うことではないかと思いました。
 つまり、豊かな国に生きる人であれば、確かに食べるにも着るにも、選択肢がたくさんあり過ぎて、何を食べようか、何を着ようかと思い悩むこともあるでしょう。しかし、食べるものに事欠き、着るものでさえ一つしかなければ、「何を食べる」「何を着る」の問題ではなく、食べるか食べられないか、着るか裸でいるか、どちらかしかないわけです。
 はたして、そういう人に向かって「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい」などということは、的はずれで愛のない言葉以外の何ものでもないのではないか、という疑問です。

 なるほど、イエス・キリストの話を聞きに集まった人たちは今のわたしたちの時代ほど豊かではなかったかもしれませんが、しかし、ほとんどの人はきょう明日にでも飢え死にしてしまうような人たちでもありませんでした。もちろん、食べるにも事欠く人がいなかったというわけではありません。食べるにも事欠く人がいることは現代の文明国でも同じです。
 いずれにしても、少なくともイエス・キリストの教えを耳にしていた人たちのほとんどは、飢餓状態にあるほど貧しい人たちではなかったでしょう。ですから今生かされているという神からの恵に目をつぶって、今と将来のことを案ずるのは、愚かしいことです。むしろ、今支配してくださっている神の恵に目を留めること、そのことによって余計な不安や心配から解放されること、そのことをイエス・キリストは望んでいらっしゃるのです。
 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:33-34)とはそういうことなのです。

 ですから、ほんとうに着るものもなく食べるものもない人には、言葉ではなく必要なものが与えられるべきでしょう。別な箇所で聖書はこう言っています。

 「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。」(ヤコブ2:15-16)

 しかし、もし、自分が食べるものに事欠き、着るものも失った時に、イエス・キリストのその言葉を意味のない言葉と思うことはないでしょう。むしろ、イエス・キリストがおっしゃるように「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:32)という言葉に支えられながら、精一杯生きて生きていこうと思います。もっとも、こればっかりはその時になってみないとわからないものです。自分の心ほど当てにならないものはありません。

 さて、もう一つの疑問はこんなことではないかと思います。
 なるほど、イエス・キリストは食べ物のことで心配などしないで、何よりも神の国とその義とを求めるようにおっしゃいました。そうすれば、必要なものはすべて添えて与えられると約束してくださいました。

 しかし、現実には必要なものが満たされずに、飢えでなくなっていく多くの人々がいます。それはイエスの言葉が今の世界には当てはまらなくなったっということでしょうか。

 もちろん、そうではありません。しかし、だからと言って、飢えて死んでいく人たちが、神の国を求めなかったからと言うのでもありません。
 あえて言えば、神は豊かに与えてくださっているのに、人間の罪深さは神の恵みの分配を不公平にしていると言うことです。人間の罪深さの結果を、神が約束を守らないからだと神のせいにするのは筋違いなことです。

 では、神は人間の罪深さに手も足も出なく、ただ困った現実に手をこまねいて眺めているだけなのでしょうか。そうではありません。
 人間の知恵と思いをはるかに超えたところで、神は救いの完成を着実に進めてくださっているのです。そういう意味でも、心配したり思い悩んだりする必要はないのです。
 お便りの冒頭にもありましたが、T・Hさんの願い、「皆でいつか天の国で喜びに包まれる日が早く来ますように」との願いは、わたしの願いでもあります。
 聖書の神は必ず神の国を完成してくださると信じています。

コントローラ

Copyright (C) 2009 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.