BOX190 2009年7月1日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 感謝について 熊本県 K・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのK・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちは。きょうは『感謝』について教えてもらいたくペンを取りました。
 人は、もの事に『感謝』の心を持つことはとても大切であると聖書で唱えられています。それが心の祝福へと繋がると知らされています。
 さて、先生はこの『感謝』について、どうお考えでしょうか。教えてもらえれば幸いです。」

 K・Iさん、お便りありがとうございました。実は先日、たまたま家のポストにある新興宗教団体の冊子が入っていました。パラパラとページをめくってみると「感謝」についての一言がこう記されていました。

 「病人には、たいてい感謝の心がありません。」

 すべての病人がそうだと断言しているわけではありませんから、一面の真理ではあると思いました。病気になって喜ぶ人はあまりいないでしょうから、病気に罹ってしまったことや闘病生活の不便さに対して不平不満や愚痴が多くなるのはありがちなことです。
 ここでその宗教団体の批判をするつもりもありませんが、ただ、結論として「したがって、病気になりたくなければ、いろいろな人に感謝をすることが大事です」と結んでいるあたりには、とても違和感を感じました。
 うかつに病気にでもなれば、感謝が足りないからだと責められたり、自らを反省するように求められるのでしょうか。それでは生まれながらに病気をもった子供は、生まれた時に感謝の気持ちをもって生まれでてこなかったことがいけなかったということでしょうか。そもそも、感謝とは病気にならないためにするものなのでしょうか。
 病気で苦しんでいる人がこの冊子を読んで、余計にやるせない気持ちになるのではないかと、人事ながら心配してしまいました。

 「感謝の気持ちをいだく」ということは、何もキリスト教だけのことではありません。おそらくどの民族にも、どの宗教にも共通した心のありようなのだと思います。ただ、他の宗教団体の書き物を読んでいて、キリスト教との違いを感じることがあるのは、先ほどの冊子の例に見たとおりです。もっとも、先ほどの例はキリスト教徒として感じた違和感なのか、それとも、一人の人間として感じた違和感なのか、自分の中でもハッキリしたことはわかりません。

 さて、話を本題に戻しますが、聖書が「感謝」について語っている箇所はたくさんありますが、クリスチャンならば比較的誰もが目にしたことがある感謝についての聖書の言葉といえば、テサロニケの信徒への手紙一の5章16節から18節に記されている言葉ではないかと思います。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 ここには「喜び」「祈り」「感謝」の三つが、まるで切り離すことができないひと繋がりのことのように記されています。そして、感謝に関しては「どんなことにも」とありますから、そこには自分にとって一見感謝できなさそうなことも含まれているのだと思います。思い通りに行かない人生にも感謝を見出すことが促されているのです。
 では、病気や不幸すらも、キリスト教では感謝なのか、という驚きとも呆れとも言える反応が返ってきそうです。もし、病気や不幸すらもキリスト教では感謝だとすれば、それこそ、キリスト教に対する違和感を覚えるのではないかと思います。

 もちろん、いくらクリスチャンでも不幸そのものや病気そのものが感謝なことであるはずがありません。そうではなく、不幸な人生を呪われた人生と決め付けず、病を得た人生を正常な人生からの脱落と決め付けない生き方こそ、人としての生き方なのだということなのです。

 もっとも、なぜそうなのかという理由には、キリスト教的な背景がそこにはあります。
 ふつう「感謝」ということを考えるときに、「出来事に対して感謝をする」「ものに対して感謝をする」「人の行為(あるいは好意)に対して感謝をする」あるいは「自然に対して感謝をする」など、感謝の直接のきっかけとなったことに対して感謝の気持ちを抱くものです。その点ではクリスチャンも同じように、物事や人について感謝の気持ちをあらわします。ただ、一点違うところがあるとすれば、それはそうした人やものの背後に働いて下さっている神に対する究極の感謝があるということです。もちろん、直接神に感謝を言い表す時もありますが、人やものごとに感謝しつつ、そのようなことをもたらしてくださった神に感謝の心を向けているのです。

 ところで、キリスト教の神は、人間よりも賢く、愛に満ちたお方であると聖書は教えています。クリスチャンはそういう賢い愛なる神を信じているという点で、この神を差し置いて自分の価値判断を絶対的に正しいとは考えません。そういう意味で病気そのものを感謝とは思いませんが、病を得たことの中に自分もわからない積極的な意味があることを信じているのです。
 結局のところ、どんなことにも感謝をするということは、どんなことの中にも愛なる神の働きを感じ取ろうとすることなのだということです。
 もちろん、「どんなことにも感謝をしなさい」と勧められているわけですから、そう勧められなければ、自分のえり好みで感謝したり不平不満を並べたりしてしまう私たちです。そういう弱さをもった私たちですから、なおのことあらゆることの中に神の愛の御手が働いていることを心して感じ取ろうとする姿勢が大切なのです。

 感謝の反対は、不平不満や愚痴です。聖書の中には不平不満の典型的な例が記されています。それは、モーセに導かれてエジプトから脱出したイスラエルの人々です。奴隷として働かされていたエジプトの地から解放されたイスラエルの人々は、それこそ神を称えて大喜びでした。しかし、神の約束された土地まで行く旅の辛さに不平不満を漏らします。エジプトを脱出した時には神の存在を身近に感じることができたのに比べ、辛い旅の中では神の存在を感じることが少なかったからです。それは神が彼らを離れてしまったからではなく、彼らの心が神からはなれて、神の存在を感じることができなくなったからです。
 聖書が教える「感謝」ということは、結局のところ人生の様々な局面で、そこに共にいてくださる愛の神を発見することに他ならないのです。神の恵みの御手の中で生かされていることを感じるときにそこ、どんなことにも感謝する気持ちを持つことができ、このことが心の平安にも繋がってくるのではないでしょうか。

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