BOX190 2009年6月24日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: なぜ右わき腹に? 他 ハンドルネームtadaさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問を四つまとめて取り上げたいと思います。まずは最初の質問です。

 「イエス様の十字架上や、復活した絵を見ると、磔にされた傷跡が両手の平と足、そして、脇腹に描かれています。そこで質問です。脇腹の傷は、ヨハネの福音に記されているように、兵士が槍でイエス様の脇腹を刺した、跡です。どの絵を見てもイエス様の右脇腹に傷跡が描かれていますが、福音書には右側とは書いていません。どうして、右側ばかりがが描かれているのでしょうか?」

 わたしはキリスト教の絵画や彫刻を事細かく調べたわけではありませんので、すべての作品がみなそう描かれているのかどうかは分かりません。ただ、「ピエタ」と呼ばれるいくつかの作品に描かれる、十字架からおろされたばかりのイエス・キリストの姿を見ると、なるほどtadaさんのおっしゃるとおり右のわき腹に傷跡が残っています。
 ピエタに描かれるキリストは、画面に向かって頭を左にして抱かかえられる構図の作品がほとんどですから、当然、わき腹の傷を描きいれるとすれば、右のわき腹になってしまうことになります。しかし、別の構図のピエタにもやはり右側に傷が描かれていますから、単なる構図の問題というのではなさそうです。
 これはわたしの想像ですが、十字架上の人間を下から槍で突き刺して、心臓を狙うとしたら、右下から左上へ向かってではないかと思います。つまり、そういう場面の想像から、右わき腹に傷跡を描いたのではないかと思います。もっとも中世のキリスト教の美術では、より善いもの、清いものは右または中心に、より悪いもの、劣るものは左に描くという約束事がありますから、キリストの聖なる傷は右に描かれたのかもしれません。
 ちなみにトリノの聖骸布と呼ばれるものに残った傷跡も右の腹部に傷跡があるといわれています。もっともこの布がイエス・キリストを包んだものであるかという議論にはまだ決着がついていません。

 さて、次の質問を取り上げます。

 「出エジプト記32章10節で、神はモーセに『わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』と言っています。これに対してモーセは、神をなだめて、『燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。』と言っています。そして、神はこれに応えて ”思い直して”います。神とは、人によって、諭される存在でしょうか。」

 聖書の中には神が思いを変えられるという書き方が他にも何度かあります。例えば、アブラハムは神がソドムの町を滅ぼそうとされるのを知って執り成しをします。神はそこに50人の正しい人がいれば、その町を滅ぼさないと約束しますが、アブラハムがさらに執り成すと、とうとう十人の正しい人のために町を滅ぼさないと約束します。この記事も一見すると、アブラハムのとりなしで神は思い変えられたように思えます。

 こうした記事を字通りに受け取ってしまえば、神は人間によって諭され、思いを覆されるお方だということになってしまいます。
 一方で神は絶対的なお方ですから、その計画の欠点が発覚して途中で思いを変更されるようなお方ではありません。しかし、他方で神はそれでも人間のとりなしを喜んで受け入れてくださいます。その時聖書は、あたかも神が思いを翻して人間の願いを聞き入れたような書き方をしています。しかし、そうした描き方はあくまでも神を擬人化した描き方に過ぎないのです。
 もし、神が人間と同じか、人間よりも浅はかな知恵しかないのだとしたら、どうして心から信頼することができるでしょうか。少なくともこの聖書の箇所を書き記した聖書記者は、この記事を神の矛盾した姿を描いたものとは受け取らずに、むしろ、変わることのない神のご計画と人間のとりなしに耳を傾けて下さる神の憐みとは矛盾することなく調和するものだと受け取ったのでしょう。

 さて、三つめの質問を取り上げます。

 「ローマの信徒への手紙12章15節には、『喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。』と記されています。愛餐会と称して、教会で飲み食いするキリスト者たちは、その食べ物を困窮している人たちに、分け与えるべきではないですか。」

 これについてはおっしゃるとおりだと思います。もし、目の前にきょうの食べものに困っている人がいるのに、その人に食べ物を与えないとすれば、それはキリスト教を持ち出すまでもなく、非人道的であると非難されても仕方ありません。
 ただ、食べ物を与えることは一時凌ぎの解決にしかならないというのも確かです。キリスト教団体に限らず数多くの慈善団体が、途上国に対して食べ物や着る物を与えることで、却ってその地域の人たちの自立を遅らせて貧困に拍車をかけてしまうという事実もあるようです。
 貧困や飢えというのは、人々の善意や慈善だけでは解決できない問題であるということと、善意や慈善だけではやがてはその援助も尽きてしまうということも知っておくべき大切な点ではないでしょうか。

 さて、最後の質問を取り上げて終わりにしたいと思います。

 「宇宙は、NASAによると、約137億年前に生まれたと推定されています。地球は、誕生してから約46億年経過していると推定されています。イエス誕生からは、約2000年でしかありません。
宇宙の歴史を、1年の長さに例えるなら、つまり、宇宙が誕生した時を、1月1日の0時とし、現在を12月31日の24時とすると、イエスが誕生した時点は、12月31日の23時
59分55秒です。つまり、宇宙誕生からの時間と比較すると、イエスが誕生してから、たったの5秒しかたっていないのです。世の終わりはいつかは来ると思いますが、それは、この先、何百億年も先のことではないでしょうか。」

 この点に関しては、そうであるとも、そうでないとも言うことができません。イエス・キリストご自身、マルコ福音書の中でこうおっしゃっています。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(13:32-33)

 ですから、人間的な詮索は過去の詮索の歴史がことごとく外れたように、あまり意味のないことと思います。
 かりに、tadaさんがお考えのように、世の終わりが何億年も先だとしても、それでも、わたしたちの生き方がそれによっていい加減であってもよい口実になってはいけないのです。

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