BOX190 2009年6月3日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 何をどう祈れば? 福岡県 H・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は福岡県にお住まいのH・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみにしております。生きていくということは、いつも直面する問題との真面目な取り組みだということを、番組を聴いていてつくずく思います。
 実は長年の信仰生活の中で何をどう祈ればよいのだろうかと思う場面に出くわし、苦悩しながら祈るものの、ほんとうにそれでよかったのだろうかと後味の悪い思いをすることがあります。
 たとえば、末期がんの患者さんが危篤であるとの知らせが入ったとします。家族の方から祈って欲しいと頼まれたとしたら、何をどう祈るべきなのでしょうか。奇跡が起って回復するようにと願うべきなのでしょうか。それともこの世の苦しみから解放されて、安らかに神様のもとへ帰ることを祈るべきなのでしょうか。あるいは、ただ御心がなりますようにと漠然と願うべきなのでしょうか。もちろん、ご家族の方のために何よりも祈ることが大切なことは承知しています。
 ただ、ご本人のための祈りに関しては、わたしはどの祈りも真実な祈りだとは思いますが、ただ、祈っていて、どれもしっくり来ないようにも感じます。
 おそらく、私の中で、祈るならその人の幸せを祈りたいという思いがあり、しかし、いったいその人にとっての幸せとは何なのだろうという思いがあるからだと思います。
 それともう一つは、医療とは何なのだろうかという、わたし自身の中の相矛盾した思いが気持ちを複雑にしているのだと思います。
 一方では最先端の医療技術によって、命に対する人間の素朴な欲求が満たされることは、文明の恩恵だと素直に喜ぶ気持ちがあります。しかし、他方では、人工的な延命にしろ、人工的な生命の誕生にしろ、どこまで人間に許されているのだろうかという恐れの気持ちのようなものもあります。そうしたことを何も考えずに、ただ人のためという理由でその人の希望を祈りつづけても良いものなのでしょうか。
 山下先生はそのような経験をお持ちではないでしょうか。何をどう祈るべきかわからないとき、先生はどうなさっているのでしょうか。よろしければお聞かせください」

 H・Hさん、お便りありがとうございます。何をどう祈ればよいかわからないという経験、これは多かれ少なかれ、誰にでもあるように思います。むしろ、どう祈ればよいか考えれば考えるほどハッキリしなくなってくるものなのではないかとさえ思います。何どう祈ればよいかがハッキリしているようなことは、却って祈る必要を感じないのかもしれません。逆説的ですが、祈る必要を痛感することほど、むしろ、何をどう祈ったらよいのかわからないのだと思います。

 例に挙げて下さったような危篤の状態にある方のために、この場合にはご家族の方の祈りのリクエストに素直に応えるというのも決して悪くないように思います。祈りの結果がどうなるのかは、誰にもわからないことだからです。もちろん、常識的に考えて、ある程度の予測はつくかもしれません。しかし、その予測に反することを祈ってはならないのだとしたら、いったい祈りとはどんなときに祈るものなのかと逆に考えてしまいます。予測どおりのことが起りますようにとしか祈れないものなのでしょうか。あるいは予測できるようなことは祈るべきではないのでしょうか。

 何をどう祈るか、ということは全知全能ではない人間には答えを見出すことはできないでしょう。いえ、むしろ、答えがわからないからこそ祈るのだと思います。それよりも、祈りの結果をどう受け止めて生きていくのかということの方が、実はもっと大切なことのように思います。
 イエス・キリストは天の父は祈る前からわたしたちの必要をご存知であるとおっしゃいました。ですから、大切なことは、どんな祈りが捧げられるにしても、最終的には、わたしたちの必要にほんとうに応えてくださる神の御心を、祈りを通して学ぼうとすることが大切なのだと思います。

 ローマの信徒への手紙8章26節には「”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と記されています。わたしたちの祈りは、何をどう祈るかわからなくて、言葉にもならないものであったとしても、それでもなお御霊が執り成してくださるのですから、祈りが言葉にならないとしても、そのことをそれほど気に病む必要はありません。

 ところでH・Hさんが後半のところで述べられていた、医療技術に関する事柄ですが、正に医療技術の進歩が両刃の剣になりうるという点でH・Hに共感いたします。
 普通、クリスチャンは反倫理的なこと、反道徳的なことはしないというのが約束事として考えられています。ところが、医療の現場では何が倫理的であり、何が倫理的ではないのか、決定しがたいことはいくらでもあるからです。
 たとえば、心臓移植技術は移植によってしか救われない多くの心臓病患者に恩恵をもたらして来ました。それは本人にとってばかりではなく、その人を取り巻く家族や知人や職場の人たちにも、生き長らえることで多くの幸せをもたらしたはずです。
 しかし、この技術を進めるためには、人間の死に関する定義を法律的に変えなければならないという問題が生じました。今までの常識ではまだ生きている人間を、新しい基準で死んだことにしなければ、心臓を取り出せないからです。そういう部分に倫理的な問題を感じてしまうクリスチャンの方も多いかと思います。
 あるいは、どうしても自分たちの子供が欲しいと願う夫婦のために、人工授精と代理母出産という技術があります。医療が発展しなければ実現できなかった技術です。こうした技術に対しても、倫理的な抵抗を覚えるクリスチャンの方もいると思います。
 こうした問題について、当事者から祈って欲しいと頼まれたとき、困ってしまうということは十分ありえることだと思います。こうした医療技術に倫理的な疑問をもっている人であるとすれば、その人は自分の良心に反してでも祈るべきではないと思います。もちろん、こうした医療技術がすべてのクリスチャンにとって問題視されているというわけではありませんから、素直に祈ることが出きる人は、祈ればよいのだと思います。

 共感できる部分で祈り、良心的に納得できない部分では、自分の良心に従って祈るより他はないのではないでしょうか。あとはすべてを神様に委ねて、祈りつつ現実を受け止めていく事だけだと思います。

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