BOX190 2009年5月20日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: どちらが易しいのですか? 群馬県 H・Bさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は群馬県にお住まいのH・Bさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聞かせていただいています。
 さて、きょうはわたしの質問に答えていただきたいと思いメールしました。
 実はずっと前から疑問に思っていたことなのですが、福音書の中でイエス様が中風の人を癒す場面があります。その中で律法学者の人々の陰口に対して、イエス様が「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問い掛ける場面が出てきます。
 イエス様はその答えを直接おっしゃらないで、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃってから、中風の人に向かって「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」とおっしゃいます。
 いったい、どちらが簡単だということなのでしょうか。わたしのこの疑問にお答えください。よろしくお願いします。」

 H・Bさん、メールありがとうございました。実はわたしが初めて聖書を読み始めた頃、この箇所を読んでH・Bさんと同じような疑問を感じました。
 まずは番組をお聴きくださっている方のために、もう少しだけ話の前後を要約してお伝えしたいと思います。
 この話は、マルコによる福音書の2章1節以下をはじめ、マタイとルカの二つの福音書にも記されているお話です。

 中風を患う一人の男が、四人の友人に床ごと運ばれてキリストのもとにやって来ます。大勢の人々に阻まれてイエスのもとに近づくことができなかったので、この四人の男たちは屋根をはがして病人をイエスの前に吊り降ろしたというのです。
 それをご覧になったイエス・キリストは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。
 ところが、その場に居合わせた律法学者たちは心の中で、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と考えはじめたというのです。
 そのことにお気づきになっておっしゃったのが先ほどのご質問の中に出てきた言葉です。
 「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」

 さて、いったいどちらがたやすいことなのでしょうか。

 答えを出すために、まず、初めに考えなければならないことは、「易しい」とか「難しい」というのは、何についてそう言っているのかという問題です。口に出して、どちらが言いやすいか、という発音や滑舌の問題のことを言っているのならば、「あなたの罪は赦される」と言うのも「起きて、床を担いで歩け」というのも、甲乙はつけがたいでしょう。どちらも口に出して言うだけならば、取り立てて難しい言葉ではありません。
 もちろん、イエス・キリストがそんなことを比べて、易しいとか難しいとか言っているのではないことは常識的に判断のつくことです。

 では、何の難しさを比べて、どちらが易しいか、その判断を問うているのでしょうか。言った言葉が目に見えて実現するかどうか、という判断でこの言葉を検討してみた場合どうでしょうか。
 歩けない病人に対して「起きて、床を担いで歩け」と命じた場合、その言葉のとおり、その人が歩き出すことは、普通は起りえないことです。その実力がないのに、あえて「起きて、床を担いで歩け」と口にすれば、一瞬にして、言葉を口にした人の力のなさ、権威のなさが判明してしまいます。
 そういう意味では、「起きて、床を担いで歩け」という言葉は、誰もが気軽に口にすることができない難しい言葉です。

 それに対して、「あなたの罪は赦される」という言葉が実現したのかしないのかは、一目瞭然というわけではありません。その言葉が本当であったということが分かるのは、最後の審判の時まで証明されることはありません。
 悪い言い方ですが、「起きて、床を担いで歩け」という出任せはすぐにバレてしまいますが、「あなたの罪は赦される」という出任せの言葉は一生化けの皮が剥がれないといえるかもしれません。そういう意味で、すぐにバレてしまう言葉を敢えて口にするのは難しく、正しいのか間違っているのか判断のつかないことは言いやすいといえるかもしれません。

 律法学者たちの言い分はまさにこの点にあったのだと思います。つまり、「あなたの罪は赦される」というイエス・キリストの言葉は、目に見える何の結果を生み出すわけでもないので、それは出任せの言葉ではないのか。出任せの言葉だとすれば、罪を赦す権威を与えられていない者がそれを宣言するとは、神を冒涜することに他ならないのではないか。いえ、そもそも罪を赦す権威は神お一人だけが持っていらっしゃる権威なので、それを横取りすること自体、言い訳のできない冒涜の罪だ、と言うことなのでしょう。

 しかし、結果を目に見える形ですぐに証明できないことをあえて言う、というのは、イエス・キリストの側から言えば、それこそ最も難しい選択と言うことにはならないでしょうか。
 実際にはイエス・キリストには病人を癒す力も罪を赦す権威もあるのですから、どちらの言葉を口にしたとしても、嘘にも出任せにもなるはずはありません。ただ、見ている人間の側には、一方の言葉の結果は明らかで、もう一方の結果は明らかとも明らかでないともいえないだけです。
 結果を明らかにすることができないような言葉を口にすれば、実際そうであったように、冒涜の罪を着せられかねません。それを覚悟で語っているのですから、この場合、明らかに「あなたの罪は赦される」と発言する方が、イエス・キリストにとっては人々を説得するには困難な発言です。
 逆に病人がすぐに歩き出すという目に見える結果を示すことができる言葉の方がイエス・キリストにはたやすい言葉であったに違いありません。

 歩けなかった病気の人が歩き出すということと、罪が赦されたということとは、必ずしも論理的に結びつくことではありませんが、少なくともしるしを求めるユダヤ人にとっては、「あなたの罪は赦される」という言葉が真実であるかどうかは病人が歩き出すことによって確かめられると考えられていたのでしょう。ですから、難しい方の言葉を先に語ったキリストは、律法学者たちの思いを正すために、あえて易しい方の言葉を後から語ったということなのです。

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