BOX190 2009年1月7日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 愛とは掟ですか? ハンドルネーム・tadaさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「最も重要な掟について、イエス様は、『神を愛すること』、『隣人を愛すること』を教えていますが、『愛』とは、『掟』で決めることですか?」

 tadaさん、いつもたくさんの質問をお寄せくださってありがとうございます。今回のご質問も、言われてみればなるほどそうだなぁと考えさせられました。これから述べることが正しい答えなのかわかりませんが、tadaさんから問い掛けられて、わたしなりに調べたり考えたりいたしました。

 まずはご質問の中に出てきたイエス様の言葉ですが、マルコによる福音書12章28節以下のところに、その話が出てきます。
 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねた一人の律法学者の問いかけがそもそものきっかけです。

 こういう問答は当時のユダヤ教のラビたちの間ではよくなされていたようです。当時のユダヤ人たちによれば、神が与えた戒めは「何々せよ」と積極的に命じる戒めが248、「何々するな」と禁止する命令が365、あわせて613の戒めがあると数えられていました。そして、その613の戒めはどれも同じ重さなのか、それともより重要なものと小さいものとに区別できるのか、そういう議論がなされていたのです。

 たとえば有名なヒレルというユダヤ教のラビはこう述べました。
 「自分が憎むべきことは、隣人に対してするな。それが律法の全体であって他はその解釈に過ぎない」

 マルコ福音書の中に出てくる律法学者も、そうした律法についての日ごろの議論が背景にあったからこそ、イエス・キリストに対して最も重要な掟についての質問をしたのでしょう。

 律法についての議論の記事はほかにもルカによる福音書の10章25節以下にも記されています。有名な「善きサマリヤ人のたとえ話」をイエスが語るきっかけを作った出来事です。そこでも同じように律法の専門家がイエスに尋ねて言います。

 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

 これは「律法の他に何をしたら」という意味ではなく、613ある戒めの中でどれをまず重んじるべきなのかという問いでしょう。ところがイエス・キリストはその質問にお答えにならないで、逆に律法学者に尋ねます。

「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」

 そうすると、律法学者がマルコによる福音書の10章でイエス・キリストがお答えになったのと同じ答えをします。

 「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

 律法学者がこうして即座に答えることができたのも、その背景に613の戒めの中でどれが大切なのかという議論が日ごろからなされていたことをうかがわせます。

 つまり、「神への愛」と「隣人への愛」を最も重要な掟であると考える議論の背景には、神の律法に対する根本的な問いがあると言うことなのです。

 神の律法とはそもそも「人間がいかに生きることが神の御心であるのか」ということを示したものです。そして、その律法を守って生きると言うことは、ただ単に律法の中に記された掟を暗記して、それを具体的な状況に当てはめていくだけでは十分ではないということがあるのです。

 確かにユダヤ教のラビたちの議論はしばしば決議論といわれているように、律法を事細かな状況に一つ一つ当てはめていく議論に終始することが多いのも事実です。
 例えば、「安息日には何の仕事もしてはならない」という律法の掟が言っている「何の仕事も」というのには、何が含まれて、何が含まれないのか。安息日に何キロぐらい歩いたら仕事をしたことになるのか…そう言った議論です。

 しかし、先ほど引用したヒレルの言葉が示しているように、律法の根本についての議論がまったくなかったというわけではないのです。より中心的なもの、より重要なものから他の戒めを位置付けて、律法全体が求めているものが何であるのかを考えるという発想はユダヤ教の中にも確かにあったのです。

 そうした発想から、神への愛と隣人への愛こそが、律法の要求全体であり、愛があらゆる掟を解釈し、適用していくための要なのだ、という考えが出てきているのです。

 律法の中にある掟は、どれも神の御心であって、それは人間が人間としてよりよく生きるための定めなのです。そして、その定めを解釈し実現する最大の原理は愛についての定めなのです。つまり、「神への愛」と「隣人への愛」が人間をよりよく生きるように導く最大の原理であり定めであるのです。

 ですから、tadaさんのご質問にあるような「『愛』とは、『掟』で決めることですか?」という問いそのものがここでは問いとして問われることはないのです。

 確かに「掟」や「戒め」という言葉には、あるべき姿を示して、それを守るべきこととして強制する力が伴うというイメージがあるかもしれません。それに対して「愛」というものは強制されるべきものではなく、あくまでも自発的であるべきものです。そういう意味では愛と掟は相容れないようにも感じられます。

 しかし、愛を最も重要な掟に据えた時点で、律法全体が求めていることは神の恵みに対する人間の自発的な応答であると再認識されているのです。

 パウロは「律法」と「愛」についてこう述べています。

 「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13:9-10)

 パウロは、掟を強制とは受け取らないで、自発的な愛によって実現されるものと理解しているのです。掟が愛を強制しているのではなく、愛が掟を自発的に全うするものと捉えているので、愛と掟は決して矛盾したり対立したりすることはないのです。

コントローラ

Copyright (C) 2009 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.