聖書を開こう 2008年7月24日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: ルカ福音書献呈の言葉(ルカ1:1-4)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうから新しい聖書箇所の学びに入ります。今回取り上げるのはルカによる福音書です。
 新約聖書の中に福音書と呼ばれるものは全部で四つありますが、最初の三つ、つまり、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は共観福音書と呼ばれています。なぜなら、この三つの福音書はまるで共通の観点から物事を観ているように内容が良く似ているからです。確かにヨハネによる福音書と比べると最初の三つの福音書は互いに共通したものがありますが、しかし、マタイもマルコもルカもそれぞれに特色をもった福音書です。単なる焼き直しというわけではありません。

 特にルカ福音書には下巻とも呼ぶべき『使徒言行録』が続いています。使徒言行録も含めて一つの作品と考えるとすれば、ルカ福音書はそれだけで他の福音書とは違う視点から救いの歴史を描こうとしているといえるかもしれません。
 もっとも、独自の視点があるといっても、イエス・キリストの教えと働きが題材ですから、各福音書に共通点があるのは当然のことです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 1章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 きょう取り上げた箇所は、ルカによる福音書のいわば前書きのような部分です。四つある福音書の中でここまで執筆の意図を最初から明確に掲げているものは一つもありません。それは、この書物とそれに続く『使徒言行録』とが、テオフィロという人物に献呈された書物だからです。

 さて、ルカによる福音書と使徒言行録の最初に名前が出てくテオフィロですが、この人こそがこれらの書物が献げられた人物です。ルカ福音書では「敬愛するテオフィロさま」と呼ばれ、使徒言行録では単に「テオフィロさま」と呼ばれています。新共同訳で「敬愛する」と翻訳されている「クラティストス」という言葉は使徒言行録23章26節で「閣下」と翻訳されているとおり、位の高い人への敬称です。
 そのテオフィロが実際、どんな人物であったのかということについては残念ながら詳しいことは分かっていません。というのも聖書の中では今上げた二箇所にしか出てこないからです。しかし、それでもこの人物は「閣下」と呼ばれるにふさわしい人物であったこと、そして、この人はルカ福音書と使徒言行録が献呈されているわけですから、この二つの本が世に出回るために貢献した人物であったことは間違いありません。
 もっとも、テオフィロが実在の人物であったのかどうか、疑問を抱く人もないわけではありません。というのは「テオフィロ」という名前の意味が「神に愛された人」といういかにも象徴的な名前だからです。そこで、ある人たちは「テオフィロ」とは神に愛された人、つまりクリスチャンのことを指しているのではないかと考えています。しかし、なぜ、象徴的なハンドルネームでクリスチャンを呼ばなければならなかったのか、またなぜ「閣下」という敬称をつける必要があったのかと言うことを考えると、やはりテオフィロは実在の人物と考える方がよろしいように思われます。

 さて、このルカ福音書をテオフィロに献呈するに当って、ルカはイエスの出来事を記録しようと「多くの人々が既に手を着けています」と述べています。つまり、ルカよりも前に既にイエスの救いの出来事について書いた人たちがいるので、その資料をルカは手にすることができたということがいえるのです。多くの人がそれについて書いているのですから、たくさんの資料に当ることができたわけです。具体的にはマルコによる福音書もそうした人々によって書かれたもので、ルカは自分の福音書を書くに当ってマルコ福音書を参考にすることができたことでしょう。また、マルコ福音書には書かれていない事柄で、ルカ福音書とマタイ福音書に共通して出てくる記事もルカ福音書の中にはあります。そうした記事も人々が後世に残した資料の一つであったと考えられています。さらにはルカ福音書の中にしか出てこない記事、例えばよきサマリヤ人のたとえ話や放蕩息子のたとえ話は、ルカ福音書の創作ではなく、すでに先人たちが記録として残してくれたものの一つだと考えてよいでしょう。
 しかも、多くの人たちが手をつけ記録しようと努めたたことは、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えた」その通りのことなのです。つまり、そのルーツをたどっていけば目撃者の証言にたどり着くことができると考えられているのです。
 確かにルカ自身の証言から言うと、ルカが属している世代はイエスの世代から隔たっているようにも思われます。最初から目撃してその目撃したことを伝えた人たちの世代があって、その伝えたことをそのとおりに記録に留めようとした人たちが属する世代がルカの前にいるわけです。そう言う意味ではルカが属しているのは三世代目ということになります。しかし、三代目といっても実際の出来事が起ってからそう遠くない時代のこと、高々4、50年ぐらいの隔たりですから、伝えられたことが正しいかどうかははが数多くの生き証人たちによって容易に判別されたはずです。

 少し具体的な例で考えてみると分かると思うのですが、先の戦争が終わってから60数年がたっています。ルカが属している世代は丁度戦後60数年にいるわたしちに似ています。わたしたちの周りには実際に戦争で戦った人たちが数少なくなったとは言えまだまだ会って話を聞くことができます。その実際に戦地へ行った人たちの証言をもとに数多くの出版物を書いた人たちがわたしたちの直前の世代に大勢います。わたし自身は戦争を体験していませんが、直接の体験を持った人に直接会ってインタビューすることもできますし、また既に書かれた書物に当ることもできます。
 ルカは「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」と述べています。先ほどのことから類推して考えてみると、ルカが書こうとしていることが、どれほどの正確さを期待できるものであるかは、容易に想像がつくと思います。

 最後にルカは執筆の目的についてこう記しています。

 「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」

 この文章の意味は二通りに理解されて来ました。「書かれたことが正確である」と言う客観的な意味にも、また、キリスト教は信じるに値する確かなものであるという内面的な意味にも理解できるからです。新共同訳聖書は教えが信じるに値する確かなものであるという意味に解釈しています。もちろん、ルカは単に自分が書いたことが歴史的に客観性を持ったものであることだけをテオフィロに知ってもらおうとしたのではないはずです。この書物を通してわたしたち一人一人がキリストの教えが信じるに値する確かなものであると受けとめることができるように、そのように福音書の学びをこれから進めて行きたいと思います。

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