聖書を開こう 2008年7月3日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 家庭内でのクリスチャン(コロサイ3:18-4:1)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 玄関を一歩入った先はプライベートな場所として、家庭の問題はなかなか表に出てこないものです。家庭内暴力や児童虐待の実態が分かりにくいのは、このプライベートな空間という厚い壁に包まれているからです。こんなに大きな問題でさえ表には中々出てこないのですから、まして家族の普段のあり方などは、それこそほとんど語られることはないのが現実です。そしてまた、家庭のあり方に何かものを言うということは、ほとんどなされないのが今の世の中の常識になりつつあるような気がします。
 それから比べるとキリスト教は実に家庭に関してよく語っている宗教だと思います。わたし自身がもうすでにキリスト教の結婚式に慣れてしまいましたので、それが当たり前だと思っているのですが、結婚に先立って聖書から夫婦や家庭について学んだり、結婚式の中で夫婦のあり方についての聖書の言葉に耳を傾けたりするのは、キリスト教会ではごく普通のことです。ところが、そうでない結婚式の場合、改めて夫婦や家庭について意識を高めたり、学んだりする機会というのはどれくらいあるのでしょうか。
 きょう取り上げようとしている聖書の箇所では、この家庭の中でのクリスチャンのあり方が取り上げられています。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書コロサイの信徒への手紙 3章18節〜4章1節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。

 今取り上げた箇所を読むときに、おそらく日本人のクリスチャンと欧米のクリスチャンとでは、この勧めの言葉の背景について、違ったイメージを抱くのではないかと思います。欧米のクリスチャンたちがこの箇所を読むときにイメージするものは、おそらく夫も妻も子供たちもクリスチャンであるような、そういうクリスチャンファミリーに対する勧めの言葉をイメージするのではないかと思います。
 ところが、家族の中で自分ひとりがクリスチャンであるような、そういうクリスチャンがまだまだたくさんいる日本では、この勧めは必ずしもクリスチャンファミリーに対するものとして受け止められるわけではないはずです。
 例えば冒頭のところでパウロは「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。」と勧めています。日本ではノンクリスチャンの夫をもつクリスチャンの婦人は大勢います。その場合、日本のクリスチャンの妻たちにとっては、従うべき夫は必ずしもクリスチャンではない夫たちです。当然、この言葉に続いて述べられている「夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない」という言葉に、ノンクリスチャンの夫たちが耳を傾けるかどうかは期待できないかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、このパウロの勧めの言葉を、家族の中にあって生きるクリスチャンとして従うべき言葉として日本のクリスチャンの婦人たちは真摯にこの言葉を受け止めていいます。
 そういうイマジネーションはクリスチャンファミリーが当たり前のようになっている欧米のクリスチャンたちにはできないかもしれません。
 では実際パウロがこの手紙を書いた教会の人々はどんな家族だったのでしょうか。もちろん、その中には家族全員がクリスチャンであるような家庭もあったことでしょう。
 例えばパウロがフィリピで伝道した時に最初に洗礼を受けたリディアという婦人も、またそのあとで洗礼を受けた牢獄の監守も、家族全員が洗礼を受けたと聖書には記されています(使徒言行録16:15、32)。
 しかし、例えばコリントの信徒への手紙一の7章12節以下に記されているようケースでは、明らかに夫婦のうちのどちらかが先に信仰に入ったような場合の家族です。ペトロの手紙一の3章1節はもっとはっきりとこう記しています。

 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」

 このペトロの手紙のケースでは明らかにノンクリスチャンの夫をもつ妻が想定されています。

 従って、コロサイの信徒への手紙に記されている妻や夫や子供たちへの勧めの言葉は、必ずしも全員がクリスチャンであるようなクリスチャンファミリーが前提にあるわけではありません。むしろ、家族の中で自分ひとりがクリスチャンとして生きているような、そういう一人に対しても求められているクリスチャンとしての生活の態度であることを心に留めなければならないのです。
 夫がクリスチャンでないから従わなくてもよいと言うことではありません。妻が信者ではないから辛く当ってもよいということではありません。あるいは親がクリスチャンでないから従わなくてもよいという根拠にはならないのです。むしろ神が定めた家庭での秩序として、相手がクリスチャンであれ、そうでないのであれ、相手に対する敬意が求められているのです。
 エフェソの信徒への手紙5章21節以下では「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言う言葉をまず記してから、妻、夫、子供たちへのそれぞれの勧めの言葉が続きます。従って、これら一連の勧めは、単に主従関係を教えているのではなく、いかに仕え合う関係を築いていくのか、そのことが抜け落ちてはならないのです。

 さて、妻、夫、子供たちへの勧めに続いて奴隷と主人に対する言葉が記されます。ここは解釈に注意が必要です。この箇所は奴隷がいる家を前提とした勧めの言葉であることは否めません。しかし、この箇所から聖書は奴隷制度を肯定していると短絡的に結論付けることはできません。この箇所はクリスチャンとして新たに誰かを奴隷とすることを前提としているのではありません。そうではなく、たまたまクリスチャンとなった奴隷やたまたまクリスチャンとなった奴隷の主人たちが、自分の今置かれている制度の中で、どう生きるべきなのかが勧められているのです。制度そのものを変えるほど彼らには力がなかったでしょう。むしろ彼らのできる範囲の中で、主に対するように互いに接することが今できる最善のことだったのです。

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