キリストへの時間 2008年10月12日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 聖書は歴史

 おはようございます。山下正雄です。
 前回はわたし自身がどのように聖書と出会い、どのように聖書を読み進んでいったかということをお話しました。とにもかくにも、聖書のストーリーそのものを追いかけました。あのときはキリスト教への興味からそうしたのではありません。聖書自身の面白さに惹かれて、気がついたら次から次へとページをめくっていたのです。たまたま旧約聖書の最初から読んだので、興味が尽きなかったのだと思います。それは今まで自分が持っていた世界とは違う世界への興味と関心であったのかもしれません。

 どんどん読み進んでいくうちに、ふと思ったことがありました。それは、聖書というものが、わたしがイメージしていた宗教の書物とはまったく違うものだということです。それは聖書に対する期待を裏切られたということではありません。
 確かに聖書というからには、ためになる教えがたくさん書かれているのだろうという期待がありました。もっと深遠な真理が、哲学的な言葉で綴られているのだろうという思い込みもありました。そんなわたしなりの聖書に対するイメージとは違って、聖書に記されていることはほとんどがイスラエル民族の歴史なのです。ただ、普通の歴史書と違っているのは、最初に天地万物をお造りになった神がこの民族と世界の歴史を導いているという独特な歴史観で貫かれていることです。今だからこそ言えるのですが、その歴史に学び、その歴史と共におられる神を知ることこそが、聖書の深遠な教えであり、深遠な真理なのです。

 どんな歴史でもそうですが、歴史を学ぶということは、ただ何年にどんなことが起ったかという事実を覚えることではありません。もちろん、歴史的な事実を知って覚えることも大切なのですが、それ以上に、そのことがどうして起ったのか、その歴史の意味を考えることの方がはるかに大切なことなのです。

 聖書を読むということは、結局歴史に対する洞察を深めることだということができるかもしれません。そして歴史に対する洞察を深めることは、そこに生きる一人一人の人生の意味や価値を考えることに繋がるのだと思うのです。それは当然自分自身の生き方をも考えることに繋がってくるのです。
 聖書は頭の上を飛び越えていくような謎めいた言葉ではなく、具体的な歴史を通してわたしたちに真理を問い掛けているのです。その問いかけを受けとめることが、聖書を読む面白さであり、また聖書を読む醍醐味でもあると思うのです。

 歴史には興味がないとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。確かに学校で習う歴史の授業は、テストのための暗記に終わって、苦痛以外の何ものでもなかったかもしれません。しかし、聖書が書き記している歴史は事実の羅列でもなければ、暗記のための歴史でもありません。
 自分と同じような人間がそこにはいて、直面する問題に向き合い、その時代を生きているのです。ただ、聖書の歴史にはいつもそこに神の働きを見ようとする歴史観があるのです。最初、そのような歴史の記述には違和感を覚えるかもしれません。すべてに納得がいくとも思えません。しかし、そうした聖書との対話がわたしたちをよりよく生きる考え方へと導いていってくれるのです。

 きょう、この番組を聴いてくださったあなたもぜひ、一度聖書を手にして、聖書の歴史に触れていただきたいと思います。

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