キリストへの時間 2008年9月21日(日)放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

牧田吉和(山田教会牧師)

牧田吉和(山田教会牧師)

メッセージ: たとえ、試練の中におかれても

 おはようございます。今日も元気にお目覚めでしょうか。山田教会の牧田吉和です。今朝も、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。
 わたしは、大学時代にヨット部でヨットにのっていました。ヨットマンの実力がどこで現れるかといいますと「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」といいますように順風のときには、実力の差はあまり現れません。ヨットマンの本領が問われるのは、特に強風のとき風と波にもてあそばれ、どうにも処置できないようなその時です。
 人間の歩みも全く同じではないでしょうか。進退が窮まるような試練の中で、その人の本領が問われます。今日の聖書の言葉は、そのような厳しい試練の中でキリスト者がどのように生き歩むべきかを教えています。

 聖書は、試練にあった場合に「あくまでも忍耐しなさい」といって忍耐について教えています。忍耐などといわれると、あるいはがっかりする方もおられるかもしれません。わたしたち日本人にとって、忍耐という事はいつも聞かされている言葉のように思われ、イメージとしてはじっと我慢することであり、「あきらめ」と隣り合わせのような感じがするからです。「キリスト教よ、お前もか」、と言いたくなるかもしれません。

 しかし、聖書の忍耐の意味は、それとは違います。聖書の教える忍耐は、一つの強さ、切れ味するどい日本刀の粘り強い強靭さです。あきらめではなく、しなやかに立ち向かう強さです。
 聖書の示すそのような強さに裏打ちされた忍耐の力は、では一体どこからくるのでしょうか。
 新約聖書のヘブライ人への手紙12章7節で、「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい父から鍛えられない子があるでしょうか」といっています。
 聖書の示す忍耐の力は、わたしたちが神の子であることを知ることからくるのです。聖書の神は父なる神です。甘えの神ではありません。父として、訓練し、鍛錬されます。それは厳しさのうちに愛に満ちあふれた訓練です。人間の父は誤った訓練をするかもしれません。しかし天の父なる神の訓練は全て時にかなっています。わたしたちにとって必ず益となるように考え抜かれた訓練です。
 わたしたちが、苦難や試練を力強く受け取ることができるのは、訓練の中に示されている神の愛を知ることができるからです。

 わたしたちは神の愛を疑いませんし、疑うことができません。
 聖書のローマの信徒への手紙5章8節で「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。
 イエス・キリストの十字架を見上げるとき、わたしたちに注がれている溢れるばかりの神の愛をはっきりと見ることができます。その時、わたしたちは、どのような苦難も試練も神の愛のしるし、愛の訓練、と見ることができるようになるのです。この訓練によって鍛錬されて、わたしたちの信仰は清められ、日本刀のようなしなやかさと粘り強さを与えられ、神の前に大人として成熟していくのです。

 このように、わたしたちが神の子であり、試練が神の鍛錬の時であることを知るとき、たとえ試練の中に置かれてもあきらめの中でただ耐えるのではなく、力強く立ち向かう勇気、強い忍耐力が与えられてゆくのです。それどころか、今日の聖書の言葉が語るこの言葉を心から告白することができるはずです。

 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」

コントローラ

Copyright (C) 2008 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.