BOX190 2008年3月26日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 福音書に復活後の記事が少ないのはなぜ? MTさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はMTさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「福音書にはどうして、イエスが復活した後の記述が少ないのですか。弟子たちは、イエスの捕縛に際して、師を捨てて逃げています。その後、復活したイエスを見た弟子たちは死を恐れないような強い者に変わっています。もし、本当に復活の主を見て変えられたのであれば、福音書記者は、聖書の核である、復活について多く記したいと考えると思うのですが。」

 MTさん、お便りありがとうございました。キリスト教にとってイエス・キリストの十字架と復活はとても重要な出来事であり、またその意味するところもキリスト教にとって中心的な教えの一つであることは間違いありません。またMTさんがご指摘くださったように、十字架を目の前に恐れをなしていたあの弟子たちを変えて、死をも恐れずにキリスト教を伝える者としたその理由はどこにあるのかと考えてみれば、復活のキリストとの出会いという事実以外にそれをうまく説明することは難しいだろうと思います。
 さて、問題はそこから先なのですが、MTさんはこう書いていらっしゃいます。

 「もし、本当に復活の主を見て変えられたのであれば、福音書記者は、聖書の核である、復活について多く記したいと考えると思うのですが。」

 この点に関しては二つほど述べておきたいことがあります。その一つは復活についての言及が、福音書の中で占める割合は本当に少ないといえるのかどうか、という問題です。もう一つは仮に復活についての記事が少ないとした場合、そのことからどんなことが言えるのかという問題です。

 まず、初めの問題ですが、MTさんは福音書の中に復活の記事が少ないと思われたからこそ、こういうご質問を下さったのだと思います。とても大雑把で単純な計算方法ですが、それぞれの福音書が復活の記事にどれくらいのスペースを割いているのかということをまず見てみましょう。いわゆる復活記事と呼ばれる部分ですが、それぞれの福音書の最終章に当る部分です。そこに割り当てている節数をその書物全体の節数で割ると次のようになります。マタイ福音書2%、マルコ福音書1%、ルカ福音書4%、ヨハネ福音書6%。すべての福音書を合計しても4%に過ぎません。
 この数字だけをみると、あまりにも少なすぎるという印象をもたれるのは当然のことと思います。一番多く割いているヨハネによる福音書でさえ、一割にも満たないスペースしか復活のために割いていません。
 さて、ここからが重要なのですが、確かに福音書はイエス・キリストの伝記ではありませんし、その生涯をすべて綴っているわけでもありません。イエス・キリストのなさった御業と教えとが福音書記者によって取捨選択されて綴られているわけです。主にイエス・キリストが洗礼を受けられてから復活されるまでの期間、これを普通、キリストの公生涯と呼んでいます。その期間はヨハネ福音書の記述を考慮して三年ちょっと程の期間だと普通考えられています。学者によってはマルコ福音書の記事だけを参考にしておよそ一年と考える人もいます。
 仮に三年とした場合、日数にして1095日です。そのうちの一日というのは全体からすると0.09%に過ぎません。仮にキリストの公生涯が一年であったとしても、一日は0.3%です。福音書が記しているのはキリストの復活の意味や教理ではなく、復活の出来事そのものです。ですから、起った出来事以上のことを長々と記すわけには行かないのです。とすると復活の日の出来事を他の日と同じように扱ったとしても1%にも満たないスペースで十分に表すことができるのです。ですから福音書全体でキリストの公生涯のうちの4%を復活の記事に割り当てているというのは、決して少ないスペースとはいえないのではないかと思います。
 むしろ、何ページにもわたって大袈裟にこの日のことを書き綴っているとすれば、そのことの方が返って復活の出来事に対する信憑性を失わせてしまうのではないかと思います。わたしとしては全体に対するバランスからいって、決して少ない分量ではないように思います。

 しかし、百歩譲って、福音書記者が復活について割いているスペースが非常に少ないと受け取るとすれば、その意味するところはいったいどういうことなのでしょうか。それは弟子たちが復活のキリストに出会っていないから、あまり書けなかったということでしょうか。それとも弟子たちはわたしたちが思うほど、復活についてそれを重要な出来事と考えていなかったのでしょうか。
 残念ながら、そのどちらも正しいとはいえないでしょう。もし、弟子たちが復活のキリストを目撃していなければ、MTさんが最初におっしゃっていたとおり、なぜ弟子たちは死を恐れないほどあんなにも変わることができたのか、その事実を説明することができなくなります。
 また、弟子たちが復活を重要と考えていないのだとすれば、例えば使徒言行録の中で復活のキリストへの言及が度々なされていることの説明が難しくなります。また同じようにコリントの信徒への手紙一の15章にみられるようなパウロの発言は理解しがたいものとなってしまいます。そこにはパウロがこう発言しています。

 「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15:14)

 これは明らかにキリスト教信仰にとってキリストの復活がどれほど重要であるかを示す発言です。ですから、弟子たちが復活の出来事を重要であると考えていないはずはありません。

 とすれば、現在福音書の中に割かれている復活の出来事に関する記事のスペースは、それを書いた福音書記者にとって、限られた紙面に対して妥当なものであったと考えるよりほかないと思うのです。
 既に述べたとおり、復活の出来事そのものは公生涯全体と比べてそんなに長期間にわたる出来事ではありませんでした。ですから必然的に実際の出来事以上にそれを記すことはできなかったのです。

 逆にMTさんに質問なのですが、この限られたスペースの中で…つまり、あの時代には記録用紙そのものが高価な時代でしたから、いくらでも紙を継ぎ足して長くすることはできなかったのです…そのスペースの中で、一体どの記事を削除して、もっと復活について書くべきだったのでしょうか。そう思うと、今に伝えられているどの記事も割愛することはできなかったのではないでしょうか。

コントローラ

Copyright (C) 2008 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.