BOX190 2008年2月27日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 救いは完成しているんですか? ハンドルネーム・ビックさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ビックさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生こんにちは。ネットで番組を時々聞かせていただいています。
 さて、さっそく質問をさせていただきたいと思います。それは救いの完成についての質問なのですが、キリスト教の救いはイエス・キリストの十字架と復活で完成したと考えることができるのでしょうか。それとも、まだ何か完成を待っている状態なのでしょうか。聖書を読んでいて、そのあたりのことがどうもはっきり分からなくてもやもやしています。
 たとえば、イエス・キリストご自身は『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』とおっしゃってますから、何らかの意味でイエス・キリストによって完成されたのだと思います。あるいはヘブライ人への手紙の中でイエス・キリストのことを『信仰の創始者また完成者であるイエス』と呼んでいるのですから、やはりキリストによって救いが完成されたのは間違いありません。
 ところが、パウロが書いているローマの信徒への手紙の中には『今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです』と記されていて、まだ救いが完全ではないような印象を受けます。他にもパウロはフィリピの信徒への手紙の中で『わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです』と記して、あたかも救いを完全に手に入れていないような書き方をしています。
 確かに自分が完全に救われているかどうかということを考えてみると、依然として悪い思いが心の中にあったり、心の中にあるばかりではなく、それが実際に行いとして外に出てくる時もあります。そういう意味では自分の救いはまだ完成されていないと感じてしまいます。
 いったい、これらの聖書の記事や自分自身の体験をどう考えたらよいのでしょうか。結局、キリストは救いを完成されたのですが。自分はその救いに与っていないということなのでしょうか。それとも、ある意味でキリストの救いは未完成のままであるということなのでしょうか。よろしくお願いします。」

 ビックさん、メールありがとうございました。ビックさんの疑問は、ご自分の救いにかかわる大変大きな問題です。そして、このことにお気づきになったのは、とても素晴らしいことだと思います。
 ビックさんのご指摘のとおり、聖書を読んでいると、救いが既に完成されているのか、それとも、まだ、これから完成に向かって進んでいるのか、どっちなのかと疑問に感じてしまうことがあります。そして、ビックさんがご自分の体験とあわせて考えた時に出てくる疑問のとおり、救いが完成されていると感じることができない体験は信仰を持った人でさえもすることです。表面的に聖書を読む限り、矛盾と思えるこの二通りの表現が聖書に見出されるために、自分の都合にあわせて一方を無視して、他方だけを採用してしまうという間違いに陥ってはいけません。結論から言えば、両方とも正しいことを言っているのです。
 では、一見矛盾するこのような聖書の箇所はどのように理解すべきなのでしょうか。

 このことを理解するためには、聖書のものの考え方に沿って事柄を把握しなければなりません。そもそも聖書がいう救いとはなんなのでしょうか。また聖書はその救いの実現をどういう時間的な流れの中で表現しているのでしょうか。そのことが把握できれば、これらの一見矛盾したように見える二つの表現に惑わされることはないと思います。

 まず、聖書が教える救いですが、もちろん、それ自体が様々な表現で言い表されていますから、決してどれか一言で表現できるというものではありません。たとえば最初の人アダムが受けるべきであった栄光の回復(ローマ3:23、5:2)、あるいは神のかたちの回復(エフェソ4:24、コロサイ3:10)という人間論的な観点から救いを表現している箇所も聖書の中には見られます。堕落した罪人が義とされる、というのも人間論的な観点からの救いということができるでしょう。あるいはもっと宇宙論的な観点から救いについて語っている聖書の箇所もあります。たとえば「万物が新しくなる」(使徒言行録3:21)とか「新しい天と新しい地」(黙示21:1)などの表現は救いを万物の再創造として捉えている箇所です。もちろん人間論的な救いは宇宙論的な救いに含まれることは言うまでもありません。

 ところで、人間の救いもその一部である「万物の更新」や「万物の再創造」というスケールの大きな救いは、聖書が教える終末論と深く関わっています。終末論というのは字面からすればこの世に終わりが来ることですが、聖書の終末論はたんに世界の破滅ではなく、むしろ、万物の再創造、言い換えれば全宇宙の救いの完成とかかわっているのです。
 この終末の到来、万物の再創造という意味での救いはまだ来ていませんから、当然聖書がそれについて語るときには未来の出来事として語っているわけです。
 しかし、この終末の出来事はただいつ来るか来ないかわからないような不安定で未確定な出来事では決してありません。特に新約聖書では終末の出来事はキリストの再臨と深く結びついています。キリストの最初の来臨、つまりキリストが地上にお生まれになり、救いの御業を成し遂げて下さったことが確実であったのと同じように、キリストの再臨も確実なこととして新約聖書の中では扱われています。そういう意味ではキリストがこの世に来てくださったことは万物の更新という意味での救いにとって確実な基礎となるものです。
 キリストと共に神の国は到来し、完成へと向かって確実に進展しているのです。キリストが救いに必要なすべてのことを成し遂げて下さり、救いの完成の基礎をしっかりと置いてくださったのです。

 さて、もう今となっては古いたとえになってしまいましたが、第二次世界大戦後のヨーロッパの聖書学者たちは、キリストの最初の来臨と終末との関係を、連合軍のノルマンディー上陸と世界大戦終結との関係で例えました。つまり、実際の戦争の終結は連合軍のノルマンディー上陸よりもあとの出来事ですが、ノルマンディー上陸の成功こそが連合軍の勝利を決定的なものにしたというのです。それと同じように、キリストがこの世にお生まれになり、十字架の上で死んで復活されたことが、救いの完成を決定的なものにしたのです。そういう意味では実際の救いの完成は終末の時であるとしても、その勝利の喜びを救いの完成に先立って味わっているのが終末に向かう今の時代に生きるクリスチャンなのです。
 ですから、聖書は一方では救いを既に完成したかのように描いたり、他方ではそれを未来の出来事として描いたりしているわけです。しかし一つはっきりしていることは、キリストの十字架と復活以降、たとえ救いの完成までに時間の隔たりがあるとしても、キリストの救いの御業が覆されるような勢力の逆転はもはやないということです。

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