聖書を開こう 2007年10月11日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: イエスの死の意味(マタイ27:45-56)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 初代教会の弟子たちにとって、反逆罪の罪に問われて十字架につけられた人物を、世界の救い主として宣べ伝えることは決して簡単なことではありませんでした。一体どこのだれが、十字架に掛けられて残虐な死を遂げた一人の男を自分の救い主として信じるでしょうか。いったいどこのどんな死刑囚ならば、世界の救い主として宣べ伝えてもよいと人は思うでしょうか。そう考えてみると、十字架のキリストの名が救い主として世界中に広まったのは不思議としか言いようがありません。キリストの十字架での死に特別な意味がなければこんなにも受け入れられることはなかったでしょう。
 どの福音書もキリストの死の意味についてそれほどたくさんは語っていません。しかし、その中でもマタイ福音書は他の福音書にはないエピソードも書き記して、イエス・キリストの死の意味を解き明かしているのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 27章45節から56節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

 きょう取り上げた箇所はイエス・キリストが十字架の上でいよいよ息を引き取る場面です。他の福音書によればイエスが十字架に掛けられたのは朝の9時でしたから、息を引き取られるまでの時間はおよそ6時間ほどでした。ものの本によれば、十字架刑は普通は6時間やそこらでは終わらないそうです。一昼夜苦しむこともあるそうです。そういう意味ではイエス・キリストは早く息を引き取られたということができるかもしれません。しかも、きょう取り上げた箇所には6時間のうちの最後わずか3時間の出来事が書き記されているのです。

 先ずはじめに描かれるのは昼の12時から3時間にわたって続く闇の世界の描写です。暗黒が地を覆ったのです。歴史家の興味は、その頃パレスチナで起った日食の記事でしょう。確かにイエスの十字架の年代を決定付ける上で有力な証拠かもしれません。しかし、聖書が暗闇を描くのはただ単に自然現象を描くことが目的ではありません。それは罪が覆う世界であり、神に敵対する世界です。その暗闇が覆う世界で、キリストは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)と叫ばれたのです。
 この言葉は詩編22編の冒頭の言葉です。確かに詩編22編全体は明るい展望で終わっています。しかし、だからといって冒頭に記される「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というキリストの言葉は決して何の苦悩も恐れもない言葉ではないのです。正しいお方であるキリストが罪人のように裁きを受けて暗い闇の世界に捨て置かれているのです。本来正しい者には神の弁護がつくはずです。正しい者は神からの弁護を期待して、どんな苦しみにも耐えるのです。しかし、きょうの場面のキリストは義人として裁きに耐えているのではありません。正に罪人の一人として、いえ、すべての罪人を代表して、神からも見捨てられて、罪の支払う報酬である死の裁きを受けているのです。
 かつて弟子たちにキリストは語られました。

 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)

 そのとおり、罪人の身代わりとなって神の怒りの裁きの座にキリストは立っていてくださっているのです。

 実際にイエスが何時に息を引き取られたのかは記されていません。ただはっきりとしていることは、イエスご自身がご自分の魂を神の裁きに委ねて去らせたということです。イエスの死はユダの裏切りのせいでもなく、ユダヤ最高法院の巧みな計略でもなく、まして、ローマの権限によって奪い去られるのでもないのです。弟子たちに予告しておいたとおり、自ら差し出されたのです。ゲツセマネの園で祈られたとおり、そうすることが神の御心であると確信してお決めになったのです。

 マタイによる福音書はイエスの死に引き続いて起った出来事を記しています。そのどれもがイエスの死の意味を暗示する出来事です。

 「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」

 神殿の垂れ幕というのは神のご臨在の場である至聖所を隔てる幕です。至聖所には罪ある人間が立ち入ることを許されません。大祭司でさえ年に一度しか入ることができない場所でした。しかも、自分自身と民の罪をあがなう血を携えてでなければ入れなかったのです。その至聖所を隔てる垂れ幕がキリストの死と共に上から下まで真っ二つに裂けたというのは、特別な意味があったのです。イエスの死によって完全に罪があがなわれ、神と人とが顔と顔とを合わせる道を開かれたのです。

 この真理をヘブライ人への手紙はこう語っています。

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10:1-20)
 
 そして、マタイ福音書はこの出来事に続いて「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」とマタイ福音書独特の記事を記します。出来事の詳細は明らかではありませんが、明らかにキリストの十字架の死と、新しい命の関係を暗示する出来事です。キリストは十字架の上で死なれましたが、それによってキリストを信じる者が永遠の命に与るためなのです。

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