聖書を開こう 2007年6月7日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 山に逃れよ(マタイ24:15-28)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 個人と世界の終わりについて扱う教えを終末論と呼んでいますが、終末論のない宗教というものが果たして人々から受け容れられるのだろうかということを思います。人生のある期間、刹那主義で生きることができるとしても、それでも、自分の終わりが近づいたときに、刹那主義で人生の最後まで生き通すというのは、至難の業です。そうできる人は卓越した哲学を持っているのか、あるいは本当に何も考えない人なのだと思います。そして、そのどちらでもない人は、いつかどこかで終末についての希望を知りたいと思うようになるものです。
 しかし、終末論ほど人を惑わす教えはないというのも真実です。終末論は特に熱狂的な信仰と結びつき、自分たちが世界の終末を引き寄せ、新しい世界の中心的役割を担うという妄想を生み出しがちです。
 そうした熱狂的な終末論に比べると、今日取り上げようとしているイエス・キリストの言葉はずいぶんと控え目な終末論という印象を受けるかもしれません。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 24章15節から28節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら−読者は悟れ−、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

 今、お読みした箇所は、既に歴史的に実現している事柄であると言われている箇所です。つまり、このイエスの預言は遠い将来の出来事を描いたものではなく、近い将来の出来事を預言したものであると、多くの聖書学者たちが指摘しています。具体的にはローマ対ユダヤの戦争でエルサレムが陥落してしまうまでの出来事を指しているのではないかということです。特にこのイエスの言葉を書き記している最初の三つの福音書のうちで、ルカによる福音書はそのことが顕著であるといわれています。というのも、他の福音書では「憎むべき破壊者が」とおぼろげに言っているところをルカだけが「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」とあからさまに語っているからです。軍隊によってエルサレムが取り囲まれるというのは、明らかにローマの軍隊がエルサレムを包囲したユダヤ戦争を思わせるからです。
 けれども、この箇所をどのように読むのかということは、十分な注意が必要です。この箇所に限らず、終末にかかわる聖書の預言を読むときには共通して注意が必要なのです。
 実は終末にかかわる聖書の預言を読むときに、二つの両極端な読み方があります。その一つは、それが預言されたときとほぼ同じ時代に実現する、または同時代に既に実現したものであると捉える立場です。先ほど紹介したように、イエスの言葉をユダヤ戦争と結びつけて理解するのはその立場です。
 確かに多くの学者が指摘しているように、ユダヤ戦争を背景に考えると、イエスの言葉はいっそう具体性を帯びてきます。
 しかし、反面、ユダヤ戦争でエルサレムが陥落するという預言であるとすれば、人の子メシアが稲妻がひらめくようにやってくるという預言は結局成就しなかったか、その部分だけ象徴的な形でしか成就しなかったことになります。
 それに対して、もう一つの極端は、このイエスの言葉を遠い将来の終末だけを預言したものだとする考えです。確かに、万物の終わりの時はまだ来ていないのですから、この読み方こそがイエスの言葉をもっとも正しく読んでことになるでしょう。しかし、それでもなおこの読み方では、聖書の預言を断片的にしか観ていないという欠点があるのです。第一、この預言がただ遠い将来のことだけを言っているのであれば、その成就の時代まで、この言葉は読む人にとって意味のない言葉となってしまうからです。

 そもそも聖書の預言が成就するというのは、デジタル信号のように1かゼロか、成就したかしないかという問題ではないのです。コップが水で徐々に満たされて溢れていくように、その預言は徐々に満たされ、最終的な成就の時を迎えるのです。ですから、どの時代の人にとっても、預言は意味のある言葉なのです。

 さて、そういう読み方できょうの箇所を読むと、確かにユダヤ戦争の時もコップのひとメモリ分の進展があったということができるでしょう。あの時にも間違いなく「憎むべき破壊者」が聖なる場所、エルサレムに立ったのです。
 ちなみに、ユダヤ戦争のときには、大多数のユダヤ人と、クリスチャンとではその取った行動が違っていたというのは有名な話です。後にユダヤ戦争の根本的な誤りについて書いたユダヤ人の歴史家ヨセフスは、戦争へと突進していった人々のしるしの読み誤りについて指摘しています。ヨセフスによれば、ある日のこと神殿の扉が独りでに開くという不思議なことが起ったそうです。戦争推進派の人々は、これこそ神がエルサレムに入城されたしるしと受け取り、人々を都に結集させるきっかけとしたのです。それに対して、クリスチャンたちはこのユダヤ教の熱狂的な終末論とは裏腹に、イエスの教え通りエルサレムを離れ、難を逃れたのでした。
 イエスの教える終末論は、人を熱狂的にさせたりはしないのです。むしろ、落ち着いて状況を見極めさせるものです。自分たちが立ち上がることで、世の終わりを引き寄せるなどと高慢な思いを抱かせないものです。それどころか、艱難から逃れるのが精一杯なのです。いえ、それすら自分たちの手では不可能にちかいのです。なぜなら、「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない」といわれているからです。
 そのためにあえて聖なる場所を離れ山に逃れるということが大切なのです。「ここにメシアがいる、あそこにメシアいる」という惑わしの声に惑わされない信仰が求められているのです。これは初代の教会と終末のときの教会だけに求められていることではありません。どの時代を生きる教会にも、時を見分けて賢く行動することが求められているのです。

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