聖書を開こう 2007年4月26日放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 一番求められていること(マタイ22:34-40)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人間が人間として生きていく上で、何が一番大切なのか、という問題は、誰もが答えを持っているべき事柄です。そのことを真剣に考えずに生きることほど愚かなことはありません。そして、そのことは学校で学ぶべきことというよりは、一生涯をかけて学びつづける事柄です。
 きょう取り上げる聖書の箇所でもまさにそのことが問題となっているのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 22章34節から40節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 先週学んだ箇所には、ユダヤ教の一派であったサドカイ派の人々が復活を巡る議論でイエスにやり込められてしまったという出来事を学びました。きょうの箇所はその様子を見ていたユダヤ教の別の一派であったファリサイ派の人々が立ち上がって、イエスに議論を挑むと言う場面です。議論のテーマはもっとも大切な掟についてです。
 この最も大切な戒めを巡るやり取りは、イエスとファリサイ派だけの議論なのではありません。聖書を真面目に学ぼうとする人々がいつもその答えを求めて考えをめぐらせてきた問題です。
 ユダヤ人たちによれば、神が与えた戒めは「何々せよ」と積極的に命じる戒めが248、「何々するな」と禁止する命令が365、あわせて613の戒めがあると数えられていました。その中でも特にどれが最も大切なのかということはいつも考えがめぐらされていたのです。そういう意味では、この問を尋ねる側も、尋ねられる側も何度となく知恵が絞られてきた話題です。ですから、福音書の中でも一度ならずイエスに同じ問が投げかけられているのです。
 ただ、同じ問いかけとはいえ、今回はあからさまにイエスに対する敵意が感じられるやり取りです。まず、ファリサイ派の人々がやってきたのは、サドカイ派の人たちがやり込められたという出来事を受けてのことです。サドカイ派の人々がイエスを論破することに成功していれば、わざわざこんな問をイエスに持ちかけることはなかったでしょう。そして、そこに記されているとおり、真面目な求道心というよりは「イエスを試そうとして」の質問です。
 では、この質問からファリサイ派の人々はどうやってイエスをやりこめるきっかけを得ようとしたのでしょうか。613ある戒めの中から、イエスが突拍子もない答えを出してくるとは思えません。聞くファリサイ派の人々もおおよその答えを予想していたことでしょう。言ってみればある程度の問答を頭の中に描きながら、イエスをやりこめるシナリオを定めていたはずです。

 イエスの口から出た答えはユダヤ人にとってとてもよく知られている言葉でした。それは「シェマの祈り」と呼ばれる祈りに出てくる言葉です。ユダヤ人であれば一日に二度唱える祈りでした。その祈りとは申命記6章3節以下に記された言葉を唱えるものです。

 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

 ですからイエス・キリストが当然のこと、唯一の主である神への愛を第一に掲げることは予想がついていたことでしょう。それに、山上の説教では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と教えていたのですから、そのイエスの口から主である神への愛が一番に出てこないはずはありません。
 もしそうであるとすれば、ファリサイ派の人々はこの予想された答えに何を言い返そうとしたのでしょうか。もっともな答えが返ってきたのですから、やり込めようがないのではないかとさえ思われます。
 しかし、質問に立ったファリサイ派の人々はきっと巧妙な次の手を考えていたのでしょう。

 もし、イエスの言う通り、神への愛が何にもまして重要であるとすれば、罪をお嫌いになる神の御心に従って、罪人とは交わるべきではないと言いたかったのかもしれません。実際、ファリサイ派の人々は徴税人や遊女たちを罪人と見なし、そんな人々とは付き合いもしなかったのです。しかし、イエス・キリストはそうではありませんでした。それらの人々と積極的にかかわりをもたれたのです。罪を憎まれる神への愛と、罪人と交わることは矛盾するのではないか。そうやり込めたかったのかもしれません。
 あるいは、イスラエルを特別に選んでくださった神を愛するなら、律法を知らない異邦人の支配のもとで皇帝に税を納める生き方はこの戒めに矛盾するのではないか。そう言いたかったのかもしれません。

 しかし、イエス・キリストは彼らが口を開く前に、第一の掟と同じくらい大切な教えがあるとおっしゃって、レビ記の19章18節を引用されます。

 「隣人を自分のように愛しなさい。」

 もちろん、この場合「隣人とは誰か」という問題があるでしょう。ルカ福音書の10章に記された「良きサマリア人の譬」では、まさにこの「隣人とは誰か」ということが問題になっていました。ファリサイ派の人々は「隣人には罪人や異邦人は含まれない」と考えていました。しかし、イエス・キリストはそうではなかったのです。自分を必要とする人に出会えば、その人は自分の隣人なのです。いえ、「誰が隣人なのか」なのではなく「その人の隣人となる」ということが「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めの求めているところなのです。

 イエス・キリストはファリサイ派の人々の先手を打って、彼らが想定していた問答集を見事に覆されたのです。神への愛を最優先と考えるなら、その神が嫌う罪人や異邦人を愛さなくてもよいというのではなく、自分を愛するように隣人を愛することは、その相手がどんな人であっても変わることがあってはならないのです。
 だからこそ、神への愛と隣人への愛は矛盾しないのです。むしろ、神が罪人であるわたしたちを憐れんでくださる最高の愛が、わたしたちの神への愛に先立っているのです。神から愛されてこそ、神を愛する者とされ、神を愛すればこそ、神がお造りになった隣人を心から愛することができるようになるのです。
 この二つの戒めを言葉巧みに使い分け、一方では神を愛すると言いながら、他方では人を隣人とそうでないものとに区別して、一方を愛し、他方を憎む生き方をしている者こそ、ほんとうに神を愛する生き方から遠いのです。

 神を愛するという掟と隣人を愛すると言う掟は決して切り離して考えてはならないのです。そして、自分にとって都合のいい人だけを自分の隣人として愛することが、どれほど神への愛と矛盾しているかをイエス・キリストはお示しくださったのです。
 こうして、イエスをやりこめるはずだったファリサイ派の人々は、逆にイエスによって律法と神の御心に対する無知をさらけ出してしまったのです。

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