聖書を開こう 2006年11月2日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: メシアの使命とは(マタイ16:20-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「救い」という言葉は、人それぞれにイメージするものが違います。「宗教は人を救うためにある」といっても、いったい何からの救いなのかは、その人が期待するものによって救いのイメージは全然違ったものになってしまいます。貧困からの救いなのか、不安からの救いなのか、神の怒りからの救いなのか、敵の圧力や搾取からの救いなのか、人は救いという言葉に様々な期待を持っています。さらに、どのように救われたいかというイメージも千差万別です。ひたむきな生き方が自分を救うと考える人もいるでしょう。あるいは自分に代わって誰かがそれを実現してくれると考える人もいるでしょう。あるいは過激な戦いが救いを実現すると考える人もいます。
 先週はペトロが「イエスこそメシアである」と告白した箇所を学びました。では、メシアとはいったいどのような使命をどのように実現するお方なのでしょうか。キリストの弟子たちは果たしてそのことを最初から正しく理解していたのでしょうか。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 16章20節から23節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 先週はとても立派な信仰告白をしたペトロの姿を学びました。それを聞いてイエス・キリストも「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とおっしゃったほどです。
 しかし、きょうの箇所に登場するペトロはイエス・キリストから「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱咤されてしまいます。この大きなギャップに戸惑いさえ覚えてしまいます。その原因はいったいどこにあったのでしょうか。

 さて、きょうの箇所は、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられたイエスの言葉から始まります。ペトロが弟子たちを代表して答えた「あなたこそメシア、生ける神の子です」という言葉こそ、キリスト教がキリスト教である中心的な教えであるはずなのに、イエスはご自分がメシアであることを口外しないようにペトロばかりか弟子たち全員にお命じになったのです。
 実はメシアという言葉ほどいろいろな意味で期待のこもった言葉はありません。先週もお話しましたが、メシアという言葉は本来は一般名詞でした。油を注がれて職に任命された者は皆「油注がれた者」「メシア」であったわけです。しかし、時代がたつにつれて、「メシア」のイメージは終末的な救済者という特別な意味を持つようになりました。しかも、そのイメージは決して一つではありませんでした。一人のメシアが期待されたのか、複数のメシアが期待されたのかユダヤ教の文書の中では定まってはいませんでした。例えばクムラン教団では二つの異なるメシア像がありました。また、メシアのイメージとして王としてのメシア像と、祭司としてのメシア像も混在していました。王としてのメシア像は時として外敵からユダヤ民族を救う政治的軍事的なメシアでもありました。
 それだけ様々なイメージが溢れていたのですから、弟子たちに厳しく命じて「御自分がメシアであることをだれにも話さないように」とおっしゃったのも無理はありません。イエスがメシアであると言うことが噂として流れてしまえば、それこそ、人々は勝手なイメージでイエスを自分たちの救い主に祭り上げてしまうからです。
 実際、ヨハネ福音書の6章15節によれば、パンに満腹した人々はイエスを王として担ぎ出そうとします。彼らにとってのメシアはきっとそのようなイメージだったのでしょう。

 イエス・キリストはこの時、弟子たちにご自分がメシアであることを人々に話さないようにとお命じになったばかりではなく、ペトロの告白の時からまことのメシアとはどのような使命を持った者であるのかを、弟子たちに語り始められたのです。
 その使命とは「苦しみを受けて殺される」という使命です。しかも、その苦しみと死とは異邦人の手によってもたらされるものではなく、長老、祭司長、律法学者たちによってもたらされるのです。言い換えれば、ユダヤの最高法院が下した判決によって罪ある者として処刑されるのです。
 もちろん、その当時のユダヤの最高法院に死刑を執行できる権限がないことは知られています(ヨハネ18:31)。しかし、使徒言行録7章58節のステファノの殉教の事例でも分かるとおり、違法な手続きで人を死に追いやるケースもあるのです。しかし、メシアであるイエスはユダヤ最高法院の有罪の判決を受けて処刑されるメシアなのです。けっして民の暴動に巻き込まれて偶発的な死を遂げるメシアではありません。聖書に書いてあるとおり罪人の一人に数えられるメシアなのです(イザヤ書53:12参照)。それはイエス・キリストご自身が後におっしゃるように、このメシアは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」来られたメシアなのです。そのようにして、わたしたちに代わって有罪判決を受け、わたしたちに代わって罰刑を受けられるメシアなのです。
 決して力によって異邦人の支配からユダヤ民族を解放するようなメシアではないのです。
 また、イエスが弟子たちに語るメシアの使命は死から「復活」するということです。死からの復活はただ死んだメシアが息を吹き返すというだけのことではありません。死はそもそも罪の結果人類にもたらされたものです。従って罪の解決は積極的に新しいまことの命と深いかかわりがあるものであるはずです。メシアの復活は失われた命の回復を保証するものに他ならないのです。
 マタイによる福音書は生まれてくる救い主を「自分の民を罪から救う」お方として1章21節で早くから読者に紹介していますが、その具体的な方法はメシアの死と復活を通して実現されるのです。
 ペトロがイエスをメシアであると告白したのは、このような使命を帯びたメシアを期待してのことでなければならなかったのです。しかし、イエスがメシアであると告白したペトロにはそれが「とんでもないこと」と思われたのでした。大胆にもペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めさえしたのです。
 結局のところ、ペトロも弟子たちも、イエスがメシアであるということを告白しながら、メシアのほんとうの使命を十分には理解できていなかったのです。
 神はイエスの死と復活を通して救いの業を成し遂げようとされていたのです。イエスはご自分のこうした使命をお語りになるとき「必ず…することになっている」と強い言葉でおっしゃいました。この「必ず…することになっている」という表現は神のご計画の必然性を語る言葉です。であればこそ、ペトロは「神のことを思わず、人間のことを思っている」とあからさまに叱咤されているのです。十字架に死に、3日目によみがえるメシアこそ神が救いのためにわたしたちにお与えになったメシアに他ならないのです。

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