キリストへの時間 2006年3月19日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「悲しみからの解放」

 おはようございます。山下正雄です。

 わたしたちは生きていくときにいろいろな悲しみに出会います。愛する者が突然亡くなってしまう悲しみ。自分が誤解されて分かってもらえない悲しみ。してはいけないことをして後悔する悲しみ。正義が踏みにじられて、正直者が馬鹿をみる悲しみ。ほんとうに悲しい出来事は絶えることがありません。

 これらの悲しみの原因を根本から断ち切ってしまえば、もはや悲しみを味わうことはないということは誰にでも分かりきったことです。しかし、聖書は最終的な救いが完成する時までは、悲しみそのものがなくなってしまうしまうことはないと教えています。何故なら、人間の罪がこの地上に残っている限り、悲しみは消えることがないからです。救いが完成するときに初めて悲しみが地上から消えうせるのです。いえ、地上から悲しみが消えうせることが救いの完成なのです、

 そのことについて、新約聖書の一番最後の書物、ヨハネの黙示録はこう語っています。

 「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(21:3-4)

 救いが完成し、新しい天と新しい地がやってくるとき、この預言の言葉は成就するのです。

 では、この時が来るまでわたしたちは悲しみから解放されることはないのでしょうか。悲しみそのものがなくなってしまうという意味では、確かにそのときまで待つより他はありません。しかし、悲しみそのものがなくならないとしても、悲しむ心を慰められ、悲しみから解放されることはできるのです。

 旧約聖書のイザヤ書と呼ばれる預言書の中には、不思議な人物についての言葉があります。その人物は「主の僕」と呼ばれる人物です。主の僕とは、神に仕え、神の御心を行なう特別な人物です。ところが、預言者イザヤの書いた書物に出てくる主の僕は悲しみを知っている人でした。

 「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」(イザヤ53:4[口語訳])…そう記されています。

 新約聖書はこの人物こそまことの救い主、イエス・キリストを預言したものと理解しています。実にイエス・キリストこそわたしたちが背負っている色々な意味での病を負い、悲しみや痛みを担ってくださるお方なのです。イエス・キリストは悲しみの世界に生きるわたしたちのところにまで来てくださり、わたしたちを豊かに憐れんでくださり、わたしたちと歩みを共にしてくださるお方です。このわたしたちの悲しみを担ってくださるお方、イエス・キリストに出会う時に、わたしたちは悲しみの重荷から解き放たれ、豊かな慰めを受けることができるのです。

 そのイエス・キリストは弟子たちにおっしゃっています。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)

 このキリストの言葉は信じるに価する言葉です。悲しみの底に沈む時にも、神はイエス・キリストによってわたしたちを励まし、慰めてくださいます。悲しみに明け暮れる時も、キリストがわたしたちの側に立って、わたしたちに負い切れない悲しみを代わって背負って下さるのです。このキリストによってあらゆる悲しみからわたしたちを解き放っていただきましょう。

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