キリストへの時間 2006年1月22日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下正雄(ラジオ牧師)

山下正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 「幸せ」

 おはようございます。山下正雄です。

 「幸せ」という言葉は、とても具体的なイメージを伴っていて、分かりやすい言葉に思えます。例えば、「結婚する幸せ」「子どもがいる幸せ」「裕福な暮らしをする幸せ」「健康である幸せ」「商売が繁盛する幸せ」。数え上げればきりがないほど、幸せのイメージは膨らみます。そして、そういう幸せを求めて、大抵の人は毎日の暮らしを送っています。

 しかし、「幸せ」という言葉は、同時にとても分かりにくい時もあります。例えば、先ほどあげた事柄を手に入れたらほんとうに幸せかというと、みんながみんなそう感じるとは限りません。結婚しない方がよかったとつぶやく人もいます。富を得たからといって、かえって余計な心配で気苦労が絶えない人もいます。逆に、それらを全然手に入れることができなかった人は、みんな不幸せな人なのでしょうか。そうではないはずです。健康が優れなくても、健康な人以上に毎日を活き活きと生きている人もいます。子どもが与えられなくても人生をよりよく楽しんでいる人もいます。幸せをイメージできる言葉があれほどたくさんあっても、いざ、現実の世界を見てみると、単純にそれだけでは描けない幸せがあるように思います。

 幸せのイメージはどんなに具体的であっても、けっしてそれだけでは、幸せの度合いをはかることはできません。幸せのイメージからどれほど外れているか、そんなことで、自分が不幸な暮らしを強いられていると思うことほど、愚かなことはありません。それはただ、青く見える他人の芝生を羨ましく思っているだけのことです。そんな心で生きるときには、けっして自分を幸せに近づけることはできないのです。

 ところで聖書にも「幸いな人」が様々なイメージで描かれています。旧約聖書の詩篇の中には「神の律法を愛する人」、その人は幸いな人であると言われています。また、イエス・キリストは「貧しい人の幸い」「悲しんでいる人の幸い」を述べています。幸いな人を描いた言葉は聖書の中に数多くありますが、一言でそれをまとめるとすれば、神の祝福に与っている幸いです。神の祝福が何であるのか、これもまた様々なイメージがあるでしょう。しかし、大切なことは、今置かれている状況が何であれ、その中に神の祝福を見出すことが、聖書が教える幸いなのです。

 聖書には神を離れた幸いはありません。逆に幸いだけが、神を離れて一人歩きを始めることもないのです。言い換えれば、事柄の中に幸せはあるのではなく、神と共にあることの中に、幸せは宿っているのです。神に幸せを求めるのではなく、神とともにあること、そのこと自体が幸せなのです。神とともにあることを願わないで、自分のイメージする幸せだけを求めたとしても、それでは幸せになることはできないのです。

 聖書が教える幸せを手に入れるには、まず、わたしたちと共にいてくださる神を、今生きている日常の中に感じることです。それを見出せない時も、じっくりと腰を据えて見守ることです。不平と不満を口にする前に、今ある恵みを数えだしてみることです。そして、そのすべてを神の祝福として受け止めることです。

 聖書が教える幸せは、結局は神と共に歩み、神の愛を自分の生活のそこかしこに感じることです。神から愛されていることをどんな小さなことの中にもじ感じ取り、感謝の思いで日々を過ごす時に、本当の幸いを見出すことができるのです。

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