BOX190 2006年10月25日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 聖書のほかに教理は必要ですか? 熊本県 M・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのM・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、この番組をときどきラジオで聞かせていただいています。先生が所属している教派は改革派だそうですが、改革派というとしっかりした神学や教理を持った教派というイメージがあります。
 そこで質問なのですが、なぜ改革派教会では教理を重んじているのでしょうか。聖書だけでは足りないのでしょうか。教理のことはよく知っているのに、聖書のことはあまり知らないのでは本末転倒になってしまうのではないでしょうか。
 失礼な質問かもしれませんが、わかりやすくお答えください。よろしくお願いします。」

 M・Sさん、お便りありがとうございました。聖書と教理の関係について、以前にもこの番組で2回ほど取上げたことがあると思います。繰り返し尋ねられる質問というのは多くの方たちにとって興味のある質問だと思いますので、今回また気持ちを新たにしてお答えしたいと思います。

 さて、プロテスタント教会の掲げているモットーの一つに「聖書のみ」という言葉があります。M・Sさんの疑問のきっかけは、おそらくプロテスタント教会の標語と深く関わっているのではないかと思います。プロテスタント教会が「聖書のみ」というモットーを掲げた背景には、当時のローマカトリック教会との論争が背景にあります。つまり、自分たちの信じるべき事柄の源泉をどこに求めるのかという問題と深く関わっているのです。教会が教えの権威の源泉とすべきものは、言うまでもなく神ご自身であることは言うまでもありません。どんな権威にも勝って教会が聞き従わなければならないのは、この神の権威です。この権威ある神の教えは具体的には啓示によって人に示されるものです。旧約時代から新約時代にいたるまで、それこそヘブライ人への手紙1章1節が記しているように「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られ」ました。では、その権威ある神の言葉は、今、どこで聞くことができるのでしょうか。
 プロテスタントの人々は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、合計66巻の聖書の中にだけ、我々が従うべき神の言葉はあると信じました。それ以外の言い伝えは、たとえ信仰的によいことを言っているとしても、教会の中で権威ある教えとして受け容れられるものではないと、全面的に排除したのでした。これが「聖書のみ」というモットーが言おうとしてる事柄です。
 ところが、その同じプロテスタントの人々の手によって数多くの信仰告白や教理問答が生み出されてきたのも事実です。「聖書のみ」と主張しながら、そのようなものを生み出していったのはどういうことなのか、それがM・Sさんのご質問の主旨ではないかと思います。
 まず、聖書と信仰告白や教理問答との関係についてですが、聖書は神の言葉そのものですから、それ自身で権威を持ったものであることは言うまでもないことです。もちろん、プロテスタント教会のある人たちは、聖書それ自体は神の言葉そのものではないと考える人もいます。しかし、話がややこしくなってしまうので、今はその立場の人たちのことは脇へ置いて話を進めることにします。
 少なくとも16世紀の宗教改革運動をすすめてきた人たちにとっては、聖書66巻は神の言葉であり、この書物だけから自分たちの信じ従うべきものを読み取ろうとしたのでした。その読み取った結果が、信仰告白や教理問答としてまとめられていくようになったのです。ですから、信仰告白や教理問答と呼ばれるものは、それ自身で権威を持っているわけではありません。その言っていることが正しいか正しくないかは、あくまでも聖書の権威に依存しているのです。別の言い方をすれば、聖書自体に書かれていない事柄や聖書から正当な結論として引き出せない事柄は、信仰告白にも教理問答にもなりえないはずですし、あってはならないのです。
 それならば、なおのこと聖書だけあれば十分ではないかと思われるかもしれません。確かに聖書だけでみんなの信じることが一致できるのであれば、信仰告白も教理問答も必要ではないでしょう。しかし、残念なことに、聖書だけでみんなの信じることが一つにはならないと言うのが現状なのです。いえ、矛盾のように感じられるかもしれませんが、信仰告白や教理問答を書き表すことによって違いが明らかになり、自分たちが実際に何を信じているのかが明らかになるのです。
 実際のところ、聖書しか持たないと標榜する教会であっても、自分たちが聖書から何を教えられるべきかという信仰の箇条を持たない教会と言うのはありません。聖書を手にしていながら、そこに何が書かれているのかを自分たちの言葉で言うことができないのだとすれば、それは結局聖書を持っていないのと同じです。
 また、聖書という書物の性格から言って、そこに記されている事柄は、時々に応じて必要な事柄を神が語ったり示したりしたものです。けっして、真理の全体を体系的に順序だてて教えようとしているわけではありません。神の御心全体を秩序だって知るためには、やはり、その聖書の真理を体系立ててまとめる作業が必要です。そういう意味からも、教理問答や信仰告白をまとめることは必要な作業なのです。
 ただ、何度も繰り返しになりますが、教理問答や信仰告白が述べていることの権威は聖書の権威に依存しているのですから、絶対的なものではありません。神の言葉である聖書には絶対に誤りがありませんが、教理問答や信仰告白には聖書を読み間違う誤りが含まれないとは言い切れません。そういう意味では、いつも聖書と照らし合わせてこそ、教理問答も信仰告白も生きてくるのです。

 M・Sさんはこんなことを書いてくださいました。
「教理のことはよく知っているのに、聖書のことはあまり知らないのでは本末転倒になってしまうのではないでしょうか。」
 これは耳の痛い言葉ですが、実際には本末転倒なことが起りやすいものです。教理問答や信仰告白はわたしたちが聖書から信じるべき事柄を体系的にまとめてありますので、それを一通りマスターしてしまうと、聖書が分かったつもりになってしまいます。確かに自己流に聖書を読むよりは、ずっと健全に聖書のメッセージを知ることができることでしょう。しかし、それは譬えて言えば、おいしい料理を自分で食べないで、人が書いた料理の説明や感想に満足しているのに似ています。確かにそこに書かれていることにはウソはないでしょう。そして、的確な表現でその料理を描いているかもしれません。さらに、それによってその料理がどんなものであるのか全体像を掴むこともできるでしょう。しかし、実際にその料理を食べてみるまでは、やはりその料理の本当の味わいを知ることはできないのです。
 本末転倒になってしまわないためには、果たして教理問答が言っていることが正しいことなのかどうか、参照箇所として挙げられている聖書の箇所と照らし合わせることは言うまでもありません。しかも、ただ、あちこち聖書のページをめくるだけでは不十分です。いつも聖書全体に親しんで、聖書全体の文脈と照らし合わせながら教理を学ぶのでなければ、本当に聖書を権威ある言葉として受け止めているとはいえません。
 矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、「聖書のみ」というスローガンは、教理問答や信仰告白を書き表すことによっていっそう、いっそうそのスローガンの真価が問われるものだと思います。もし何も書き表さないとしたら、「聖書のみ」といいつつ、結局は漠然としか聖書に聞かなくなってしまうのです。

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