BOX190 2006年10月4日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 忍耐とは? 千葉県 S・Iさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生こんにちは。いつも放送を楽しく聞かせていただいています。きょうは忍耐について教えてください。
 愛は忍耐強い…と言いますが、忍耐の『忍』の字は『心』に『刃』(やいば)をのせている字です。心をかきむしるようなことにも耐え忍びなさいと聖書は言っているのでしょうか。自分では心に刃をのせ続けるのは、とうてい無理だと思うこの頃です。どうぞよろしくお願いします。」

 S・Iさん、お便りありがとうございました。人間が生きていくときには色々な意味で忍耐が必要です。植物一本にしても、種を蒔いてからきれいな花を見ることができるまで、忍耐して待たなければなりません。何か一つの仕事を仕上げるのにも、段取があり、手順があって、その一つ一つが終わるのを待たなければ次へは進めません。それも忍耐のいることです。
 また、同じ忍耐でも、人間関係で耐えなければならない忍耐は一段とストレスが溜まる原因でもあります。人は一気に成長できるものではありません。自分の子供を育てる忍耐なら、まだ我慢できるかもしれません。あるいは他人であっても成長を見ることができれば希望をもって忍耐することができます。けれども、そりの合わない人と共同で何かをしなければならない忍耐はとても努力を要する場合もあります。
 さらに、聖書特有の「忍耐」についての教えも、聖書の中には出てきます。それは終末の時を待ち望む忍耐です。イエス・キリストはおっしゃいました。
 「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコ13:13)

 さて、S・Iさんが特にお聞きになりたいと思っていらっしゃる忍耐とは、愛に関わる忍耐、つまり対人関係に関わる忍耐と言うことではないかと想像いたいします。冒頭で引用された「愛は忍耐強い」という言葉は、コリントの信徒への手紙一の一三章にでてくる、いわゆる愛の賛歌と呼ばれる個所に記された言葉です。実はその同じ個所には「(愛は)すべてを忍び…、すべてに耐える」という言葉も出てきます。ここだけでも、「忍耐強い」「忍ぶ」「耐える」と同じような言葉が続いています。パウロが愛の特徴として描いている「忍耐強さ」、「すべてを忍び、すべてを耐える」とはどういうことなのか、見てみたいと思います。

 先ず最初に「愛は忍耐強い」と言われている「忍耐強い」と言う言葉ですが、これは他の翻訳聖書では「寛容」とも訳される言葉です。もともとのギリシャ語の単語は「マクロ」と言う言葉と「スモス」と言う言葉から成り立っている複合語の動詞です。「マクロ」と言うのは距離や時間が長いことです。「スモス」と言うのは「感情」を意味する言葉です。つまり、ニュアンスとしては感情を爆発させることから遠いことです。つまり、そういう意味で寛容で忍耐強いと言うことなのです。
 同じ意味の形容詞は旧約聖書の中では神の属性をあらわすヘブライ語「アーレーク」の訳語として登場します。例えば出エジプト記34章6節に神ご自身がご自分についてこうおっしゃっています。

 「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、…」

 別の翻訳では「忍耐強く」のかわわりに「怒ることおそく」と訳されています。つまり、忍耐強いのも、怒ることおそいのも、もともとは聖書の神さまのご性質だと言うことなのです。もし、人間が「忍耐強さ」について学ぶことが出きるとすれば、何よりもこの神の忍耐強い愛に触れることが大切なのです。聖書は罪人である人間に限りない寛容を示し、大きな手を広げて待っていて下さる神の姿を描いています。この神の愛に触れることがなければ、わたしたちは本当の意味での忍耐強さを身につけることはできないのです。

 では、コリントの信徒への手紙一の13章7節に出てくる「(愛は)すべてを忍び…、すべてに耐える」と言う場合の「忍ぶ」とか「耐える」というのはどういう意味なのでしょうか。
 まず、最初に出てくる「忍ぶ」と言う言葉はステゴーというギリシャ語です。この言葉はステゲー(屋根)
という言葉から出てきた単語です。屋根と言うのは家を上から覆うものです。内側のものを覆い隠すというニュアンスにとれば、感情を覆い隠すと言う意味で、最初の「忍耐強い」という言葉に似ているかも知れません。しかし覆うことで家が雨や陽射しから守られるように、弱さをかばうという意味では、他人の罪や弱さをかばい、さらさない忍耐ということもできるかもしれません。
 実は、これも神様の愛の属性と言うことができます。神はただわたしたちの罪を断罪するだけではなく、覆い包んであがなってくださいます。その深い愛で罪を覆ってくださるのです。ここでもこの神のすべてを忍ぶ愛がわたしたちの最大の模範となるのです。

 最後に、「すべてに耐える」と言う場合の「耐える」とはどういう意味でしょうか。この場合の「耐える」と言う言葉は「留まる」という言葉と関係した言葉です。しっかりとその場に留まるという意味で「耐える」のです。実はこの「すべてに耐える」と言う言葉の前に「すべてを信じ、すべてを望み」と言う言葉が続いています。この場合の「耐える」というのはこの先行する二つのこと、「信じること」と「望むこと」と切り離すことはできないのです。疑わしい時も相手を信じて留まり、希望を捨てないでその場にしっかりと留まるという意味で、耐えるのです。そういう意味で、キリスト教的な忍耐は信じる心と希望と密接に関わっているのです。

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