BOX190 2006年9月6日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: ルカ福音書は十字架の意味に関心がない? 神奈川県 M・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのM・Mさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「先日、ある先生の話の中で、『ルカ福音書は他の福音書と比べてイエス・キリストがなぜ十字架に掛けられたのか、その意味についてまったく語っていない』と言うことを耳にしました。あまりにも唐突な話で、言っていることが良く理解できませんでした。ほんとうにルカによる福音書はイエス・キリストの十字架の意味について無関心な福音書なのでしょうか。あるいはわたしの早とちりでしょうか。なんだか訳の分からない質問で申し訳ありませんが、解説していただけるとありがたいです。よろしくお願いします。」

 M・Mさん、メールありがとうございました。ルカによる福音書がイエス・キリストの十字架の意味について全く触れていない、というような話を聞くとちょっとびっくりしてしまうと思います。というのは、クリスチャンにとってイエス・キリストの十字架の死の意味は、人間が犯した罪の罰に対する身代わりの死であったと信じられているからです。このことは少なくともクリスチャンであるならば疑いようのない信仰の内容です。キリストの死はあってもなくてもどちらでも良いようなものではなく、むしろ救いにとって不可欠であると信じるのがキリスト教の信仰です。きっとM・Mさんもそう信じてこられたからこそ、その先生のお話を聞いてビックリされたのではないかと思います。
 わたしは、そういうときにこそ、初心に帰って自分の常識を徹底的に検証してみるのも良い機会ではないかと思います。少なくとも、今まで聖書の教えとして常識的に信じられてきたことが、聖書のどの部分から引き出された結論なのか、この機会にご自分で聖書を読み直して見ることは、とても役に立つことだと思います。どうぞ、ご自分で早速聖書を読み直してみてください。たとえばパウロの書いた手紙を読み返してみれば、すぐにその答えが見つかるはずです。
 では、M・Mさんがお聞きになったルカによる福音書のお話が、本当のことかどうか、これも、先ずご自分の目で確かめてみられたら良いと思います。ルカによる福音書は分量的にもそんなに長い書物ではありませんから、一日読めばご自分で確かめることができるはずです。
 しかし、結論を先に言ってしまうと、新約学を専門に研究している学者たちには早くからこの事実が知られていました。ただし、イエスの死の意味について語っていないということが、どういう理由によるのか、と言うことは別の問題によることです。それはただイエスの十字架に対する無関心から出たことなのか、それ以外の特別な理由があってそうしたのか、これは議論の余地のあるところです。
 それから、もう一つ注意しなければならないことは、ルカによる福音書は他の福音書に比べて、ほんとうにキリストの十字の死について語っていないのでしょうか。特にこの場合、いわゆる共観福音書と呼ばれる最初の三つの福音書を比べてのことを学者たちは言っているのだと思います。これも、ご自分の目でお確かめいただくのが一番よいと思うのですが、マルコ福音書やマタイ福音書がルカよりもふんだんにイエス・キリストの死の意味を語っているかというと、決してそうではありません。明らかに取上げられている個所は実は一箇所しかないのです。それはマルコによる福音書10章45節の言葉です。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

 ここにははっきりとイエスの死が多くの人のための身代金であるという考え方が示されています。この点はマタイによる福音書もマルコによる福音書と変わりません。特にマタイの福音書がマルコ福音書以上に何かを言っているわけでもありませんし、マルコ福音書以下のことを言っているわけでもありません。そして、ルカ福音書はこの言葉が含まれているお話自体を全部割愛してしまっていると言うことなのです。ルカによる福音書がイエスの十字架の死についてその意味を語っていないと非難されるのは、実はたったこの一点なのです。ルカによる福音書がこの部分をどうして割愛してしまったのかは、いろいろな説明ができるはずです。
 それから、イエスの死の意味について語っているのは、共観福音書の中ではその部分ばかりではありません。いわゆる最後の晩餐の場面で、弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えたときに、イエスがおっしゃった言葉はイエスの死と結び付けられています。ルカによる福音書はその部分をこう記しています。

 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

 パンはイエスを信じる弟子たちのために裂かれるキリストの体であり、ぶどう酒は弟子たちのために流されるキリストの血なのです。こうして、キリストの死がキリストを信じる者たちにとって救いをもたらす救済的な意味を持ったものとして描かれているのです。もちろん、これはルカ福音書が特別に語っていることではなく、他の福音書でも語られていることです。そして、コリントの信徒への手紙一の11章23節以下にも記されているとおり、使徒たちの伝承に基づいたものなのです。ですから、ルカによる福音書がとりたててキリストの十字架の死の意味を他の福音書と比べて低く扱っていると言うわけでもないのです。
 さらに、付け加えるとすれば、ルカによる福音書には十字架の上で語ったキリストの言葉が独自に記されています。これはマルコにもマタイにもない言葉です。その言葉とは、ルカ福音書23章43節に記された次のような言葉です。

 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

 この言葉はアダムの楽園追放の物語と関連していると考えられています。つまり、最初のアダムが楽園から追放されたことによって閉ざされていた楽園が、いまやキリストによってその門が開かれたと言う宣言なのです。そのキリストによる宣言が、十字架の場面でなされているというのは、キリストの十字架の死と楽園の回復とを結びつけて理解しているとも考えられるでしょう。
 結論を繰り返すと、確かにルカ福音書はマルコ10章45節に記されたイエスの言葉を省いていますが、そのことはキリストの十字架の死を軽く扱っている証拠でもないし、まして、無関心であることを証明するものでもありません。

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