BOX190 2006年8月23日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 死ぬ日は生まれる日にまさる? 長野県 G・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのG・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「コヘレトの言葉7章1節で『死ぬ日は生まれる日にまさる』とあります。これはどういう意味でしょう。人間死んでしまえば終わりで、生きているうちが『花』だと思うのですが…。
 キリスト教ではクリスマスやイースターなどキリストの誕生とか復活とか生きることの方が取りざたされていて、このコヘレトの言葉は聖書の見解とは逆の方向だとかねがね思っていたのですが、どうでしょうか。」

 G・Yさん、いつもしっかりと聖書を読んでいてくださり嬉しく思います。「コヘレトの言葉」は「伝道の書」とも呼ばれていますが、この書物の出だしはとても意表をつく言葉で始まっています。おそらく聖書の中の言葉の中で、これほどに悲観的に響く言葉はほかにないかもしれません。

 「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。」(1:2)

 口語訳の聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である」と訳されていました。

 コヘレトの言葉は人生の空しさや儚さをこれでもかと言うほど書き連ねています。その部分だけを抜き出して読むと、まるで希望など持てなくなってしまうほど、この世がもつ空しさや厳しさを突きつけられてしまいます。コヘレトの言葉は決してこの世の現実をオブラートに包みこんで表現しようとはしないのです。
 具体的にどういう点にこの世の空しさを感じるのかと言うと、先ずはじめにあげているのが、この世の中に起る事柄が、進歩のない繰り返しであると言う点です。もちろん、これに対しては反論の意見もあるでしょう。新しい文明や文化の発展と言うものを数え上げればキリがありません。しかし、コヘレトにとっては、そういう新しいものが、繰り返される日々の中で起ったとしても、それでも、何よりもその時代に生きた人々が後の時代に覚えられることなく過ぎ去っていくということが空しいと感じられるのです。言葉を変えれば、額に汗してパンを得ても、やがては土に返ってしまう空しさです。
 あるいは、知恵すらも空しいとコヘレトは言います。なぜなら、「知恵が深まれば悩みも深まり 知識が増せば痛みも増す」(1:18)からです。具体的に言えば、見聞を広めれば広めるほど、悪人が栄え、正しい者の正義が捻じ曲げられている現実を知り、正義と公平が勝利を勝ち取るとは限らない世界を知ってしまうのです。この世の中を探求すればするほどこの世の矛盾を知ってしまうのです。
 だからと言って、快楽を追い求め、刹那的に生きさえすれば、人間は幸福で満たされた人生を送ることができるかと言えば、そうではないとコヘレトは言うのです。
 そういう人生の空しさということを次々に明らかにしていく、このコヘレトの言葉ですが、G・Yさんがご指摘してくださった7章1節の言葉には、とうとう「死ぬ日は生まれる日にまさる」とさえ記されています。
 実はコヘレトの言葉の中では、この言葉が唐突に出てきたのでは決してないのです。すでに4章はこんな言葉で始まっています。

 「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。 見よ、虐げられる人の涙を。 彼らを慰める者はない。 見よ、虐げる者の手にある力を。 彼らを慰める者はない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。」

 もちろん、こうした現実の社会の苦しみが何に由来するものであるのかをコヘレトは知らないわけではありません。その空しさが一つには人間の罪深さに由来するものであることはコヘレトにとって当然の前提です。この人生の空しさは、決して神の気まぐれでもなければ、運命や偶然のいたずらでもないのです。正に罪ある人間自身が生み出しているのです。このような空しい人生を生きていかなければならないことは、決して人間にとって幸せなことではありません。そういう意味で、たびたびコヘレトは生きていることよりも死ぬことの方が幸いだといっているのです。
 もちろん、その理論を推し進めていけば、自殺することが正当化されてしまうことでしょう。けれども、コヘレトはこの書物を通してこの世をはかなんで自殺することを勧めているのでは決してないのです。
 というのは、この人生を空しくし不幸なものにしているもう一つの理由があるからです。それは、この世界を造り、摂理によって世界を支え導いているお方を知らないということに由来するのです。確かにこの世界は人間の罪のゆえに空しさに満ちています。けれども、それでもなお神はこの世界を目的に向かって支え導いて下さっているのです。
 そこで、最後の結論として、このコヘレトが言っていることは12章1節にこうまとめられています。

 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。 苦しみの日々が来ないうちに。 『年を重ねることに喜びはない』と 言う年齢にならないうちに。」

 創造主である神を知り、このお方を信じる時、人間の罪がもたらした人生の空しさの中にあっても、希望の光をもって歩むことができるようになるのです。ですから、確かに、この書物の途中には「死ぬ日は生まれる日にまさる」とか「既に死んだ人を幸いだと言おう」などといわれてはいるのですが、それは、あくまでも神を知らない、罪に埋もれた人生のことを言っているのです。コヘレトの言葉の結論は、「人生は空しいのだから、死んだほうがましだ」と言っているのでは決してありません。あるいは、逆に「空しい人生だから、思い切り羽目をはずして、快楽にふけろう」と勧めているのでもありません。そうではなく、造り主である神を知るときにこそ、空しいと思えるこの人生の意味を見出し、希望をもって歩むことができるようになるのです。このことを勧めているのがこの「コヘレトの言葉」という書物なのです。

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