BOX190 2006年5月10日(水)放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「何故殺人はいけないのですか」 ハンドルネーム なおさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームなおさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「突然のメールで失礼します。最近の若者たちの間では『どうして人を殺してはいけないのか』ということを真顔で聞いてくる人がいるそうです。もちろん、それが真摯な問いかけなら、おおいに探求して欲しいものだと思います。しかし、このような問いかけをするのは、その理由を真面目に探求しようという動機からではなく。、むしろ、『理由なんかない。だから、殺してもいいんだ』という短絡的な思考と結びついていて、恐ろしい気がします。
 わたし自身にとっては、『人を殺してはいけないことは常識じゃないか』の一言で十分です。あえて理由など言う必要もないことだと思っています。しかし、この問いに正確に答えようとしたなら、いったいどんな答えが出せるのかという疑問が頭をよぎりました。
 キリスト教ではもちろん、殺人が禁止されていることは知っていますが、何故人を殺してはいけないのか問い疎いに、どのように答えているのでしょうか。教えていただければ幸いです。」

 なおさん、メールありがとうございました。この十年ほどのニュース記事を見ていると、「人を殺してみたくなったから、殺してみた」とか「人を殺してははいけない理由がわからない」とか、今までの常識では考えられないような発想をもった人たちのは発言に戸惑いを感じてしまいます。
 わざわざ聖書を持ち出すまでもなく、殺人が罪であることは分かりきったことです。いったいこの世の中に殺人を罪としない宗教や法律があるでしょうか。だれも、殺人を禁じる法律があることを疑問に思う人がいないくらい、今までは殺人を犯してはいけないことは当たり前のことだったのです。しかし、今まで自明のこことされてきたことが、ここへ来て、その前提が大きく崩れてしまっているのですから、何故殺人がいけないのかを説明しなければならなくなっているのです。
 しかし、その理由を説明するというのは即座には難しいというのも事実です。当たり前のことであればあるほどいざ説明しようとすると難しいものです。いったい聖書ではその問題をどう扱っているのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。

 まず、聖書が殺人を罪としていることは、誰もが知っているとおりです。「汝、殺すなかれ」という十戒の言葉は有名です。他にも十戒の言葉には「盗むな」「姦淫するな」「偽証するな」などありますが、どれも一々その理由が書いてあるわけではありません。いってみれば、聖書にとってもそれは自明のことだからです。
 では、何故人を殺してはいけないのか、聖書にはその説明がないのではありません。旧約聖書の創世記9章6節にこんな言葉があります。

 「人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。 人は神にかたどって造られたからだ。」

 「人の血を流す」というのは、その直前の5節で「命である血」と言われているように「血」というのは「命」をあらわすものです。従って、ここで言われている人の血を流す行為というのは、ただ単に怪我をさせて血を流させるといいことではなく、命に対する侵害行為なのです。つまり、殺人の行為といってよいでしょう。そのような行為が死に価する重大な罪である理由として、創世記は「人は神にかたどって造られたからだ」と述べているのです。つまり、聖書が教える人間の命の尊厳さは、人が神のかたちにかたどって造られているという点にあるのです。殺人とはその尊厳さに対する侵害行為なのです。
 人間は一人一人、神のかたちを持つものとして造られています。それだからこそ、人間は他の動物と違って特別な価値をもっているのです。もちろん、動物をむやみに殺すことはよくないことでしょう。しかし、人間には他の動物が持っていない「神のかたち」という特別な尊厳が与えられているからこそ、その命を奪うことが禁じられているのです。聖書はそういった宗教的な理由で殺人の罪を禁じているのです。

 この他にも別の仕方によっても、何故、人を殺してはいけないかといことを聖書から説明することはできます。
 そもそも、この「汝、殺すなかれ」といわれている十戒の戒めは、イエス・キリストによれば「隣人愛」ということにすべてを要約することができます。言い換えれば、「殺すな」という戒めは単に殺すことだけが禁じられているのではなく、積極的に言えば、隣人を愛することが求められているのです。つまり、人を殺すということは、神が望んでいらっしゃる隣人愛に反する行為なのです。神は神のかたちに造られた人間同士が助け合い仕えあって生きることを望んでいます。実際、そうでなければ、誰一人として生きていくことはできないのです。神は人を一人で生きていけるようにとはお造りになっていないのです。人間とは互いに助け合い、仕えあうことを通して生きる存在なのです。だからこそ、隣人愛は人間が人間らしく生きる上で欠かすことができないのです。  殺人というのはその隣人愛に生きる秩序を破壊し、否定する行為です。そのような破壊的な行為によって、神が望まれる社会が崩壊してしまうからです。だから人を殺すという行為は許される行為ではないのです。

 そもそも「どうして人を殺してはいけないのか」ということを疑問に感じること自体が、いかに人が人としての尊厳さを感じられなくなってきているかということの証であるような気がします。自分自身が他の人から愛される存在として大切に扱われてきた者にとっては、「どうして人を殺してはいけないのか」という疑問すら起らないはずです。そういう意味では、「どうして人を殺してはいけないのか」という疑問を抱いてしまう人たちが起って来る社会は、どれほど病んだ社会であるかということだと思います。そう考えるならば、それは単にそんな疑問を抱く人の問題ではなく、愛からほど遠くなっている人間の社会の問題でもあるということができるのではないかと思います。

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