BOX190 2006年3月1日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「どうして教会は必要ですか」 匿名希望さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の女性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下正雄先生、いつも番組をラジオで拝聴させていただいております。とても分かりやすく解説してくださり、いろいろと考えさせられております。

 さて、きょうメールしましたのは、教会というものについての疑問があるからです。わたしは目に見えない教会というのでしょうか、イエス・キリストを頭とした、キリストを信じる者たちが構成する目には見えないけれども確かに存在する教会があることは信じています。また、そういうものが大切であることも信じています。

 しかし、目に見える地上の組織としての教会が本当に必要なのかどうか、いろいろと疑問に思うことがあります。人間の弱さのために、かえって教会と言う組織には躓いてしまうことばかりが多いのではないかと思うのです。

 聖書の御言葉を聴くために教会が必要であるというのであれば、それは今ならラジオやインターネットを通して素晴らしい聖書の解き明かしを聴くことができます。あえて、特定の場所に集まる必要があるとも思えません。それに、人が溢れる教会の礼拝では、会堂に入りきれない人のために、別の部屋でスピーカーやビデオを通して牧師の説教を聴くのですから、それならば、家で聴いても同じような気もしてしまいます。

 どうぞ、わたしにもわかるように、教会の必要性を教えていただければ嬉しく思います。」

 教会についてのご質問、ありがとうございました。この地上にある教会という組織について、この番組にご質問をいただくのは、これが初めてではないと思います。以前にも話したことがあるかもしれませんが、こういう質問が出てくるきっかけは、とても残念なことですが、地上の教会に対して失望するような体験をされたことだと思います。もし、この地上の教会が、満足行くものであったとしたら、だれも、こんな疑問は持たないことでしょう。そして、こういう質問が寄せられる時にいつも残念に思うことは、教会のもつ悪い側面や弱さだけを先に体験してしまっているということです。それと同じくらい、この地上の教会にはわたしたちを益する素晴らしい側面もあるということを全然経験しないまま、教会を去っていってしまう人たちがいることは、とても悲しく思います。

 さて、この地上の教会に集まるクリスチャンたちが、理想のクリスチャンばかりではないということは否定できません。これは教会というものを考える時に大きな前提として心に留めておかなければならない点です。そもそも、聖書が描いているクリスチャンというのは、キリストが再びこの地上にやって来られる日に向かって、清められ整えられつつある存在です。完成された者としてではなく、完成へと向かって成長の途上にある者としてのクリスチャンの姿なのです。こういうクリスチャン像をもっともよく描いているのはフィリピの信徒への手紙、とくに3章がそうだと思います。その途上のクリスチャンが集まって組織する教会ですから、最初から完全な教会であるということ自体、ありえないことなのです。クリスチャンがキリストの来臨の日に向かって成長していくのと同じように、地上の教会もそれに伴って成長していくものなのです。まず、その事実をしっかりと受け止めておかなければ、無用なことで教会に躓いてしまいます。

 しかし、もともとそういう不完全な組織体であるなら、なおのこと教会に集まれば、ろくなことはないと考えてしまうかもしれません。

 しかし、先ず一つには、たとえ不完全であるとしてもそういう地上の教会を神ご自身が組織されることを望んでおられるということです。それは一番最初に心に留めておかなければならない点です。教会というのは人間のアイデアで始まったわけではありません。人間のアイデアで始まった組織ならば、人間の思いで止めてしまうのも自由でしょう。しかし、教会の存在は、なによりもイエス・キリストが望んでおられることなのです。

 マタイによる福音書の16章で、イエス・キリストは「この岩の上にわたしの教会を立てよう」と約束してくださっています。もちろん、それは地上の組織としての教会のことを考えていなかったという反論もあるかもしれません。しかし、同じ福音書の18章でイエス・キリストが使っている「教会」という言葉は、あきらかに目に見えない理想の組織としての教会ではなく、人々が具体的な訴えをなすことができるような組織としての教会です(マタイ18:17)。それに、パウロがその手紙の中で書いている「教会」という言葉も、必ずしも目に見えない霊的な共同体という姿ばかりではありません。具体的に働き人がそこで働き、共に礼拝を守り、愛餐の食事をするこの地上の教会です。つまり、聖書自身が地上の組織としての教会を最初から必要な存在として描いているということなのです。たとえ、それが不完全であったとしてもそうなのです。コリントにあったクリスチャンの群れでさえ、聖書はそれを「教会」と呼んで、その群れの存在を否定してはいないのです。

 しかし、聖書が地上の組織としての教会について、それを当然のこととして描いているからといって、その存在がどういう意味で必要なのか、それを理解しなければ意味がありません。

 わたしは、聖書の中で教会がキリストの体として描かれている点はとても素晴らしい譬えであると思います。人間の体には多くの部分があります。体の一つ一つの部分というのは、いくらその一つが素晴らしい機能であったとしても、それ一つでは意味のあるものではありません。例えば、よく見える目があったとしても、目だけでは何もすることができません。よく聞こえる素晴らしい耳があったとしても、それだけでは意味がないのです。一つ一つの部分が一つの体に属して、初めて意味のある体として存在することができるのです。このことは、自分が体である教会に属することによって、たくさんの益を得るということでもありますし、同時に自分の存在が同じ体に属する他の部分に大きな益をもたらすということでもあるのです。

 神はそのようにキリストの体である教会に一人一人が属することで、互いに相手を益しながらクリスチャンとして成長していくことを望んでおられるのです。

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