BOX190 2006年1月25日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「占いは何故いけないのですか」 ハンドルネーム・まきさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・まきさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、突然のメールで失礼します。先生は占いについてどう思われますか。雑誌を買ってもラジオを聞いても「今日の運勢」など、占いに関するコーナーがないものはないくらい占いだらけです。テレビをつければ、占いなんだか人生相談なんだか、わけのわからないものにゴールデンタイムが当てられています。公共の電波のはずなのに、そんなくだらないことのために時間を使ってもよいのかと、憤りさえ感じます。

 そんな占いの番組を期待する視聴者がいるからだといわれてしまえば返す言葉もありませんが、このままでは日本はどうなってしまうのかと心配になってしまいます。

 そんな話を友達にすると、私は真面目に物事を考えすぎるといって笑われてしまいます。友達は「占いなんて所詮はお遊びだから、誰も信じたりしていない」といいます。いいところだけ信じてうれしい気分になればよいのだし、嫌なことを言われれば気をつければいいだけで、それに振り回されている人なんていないと言うのです。

 また、別の友達に聞けば、「占いといっても全くの迷信ばかりではない」と今度は大真面目な口調で反論してきます。その友達によれば、占いは一種の統計学だというのです。

 そこで、山下先生にお聞きしたいのですが、この占いに毒された日本の社会を神様はどうご覧になっていらっしゃると思いますか。よろしくお願いします。」

 まきさん、メールありがとうございました。なかなかストレートな内容のお便りに、思わず膝を叩いてしまいました。確かにクリスチャンとしてこのブームを見るときにとても残念な気がしてなりません。それは、放送局がキリスト教の番組を取り上げないことへのやっかみから言うのではありません。そうではなく、一方ではカルト的な宗教に対する警鐘を鳴らす役割を報道番組などが真面目に果たしている傍らで、同じ放送局から何の根拠もない占い師の番組を大真面目で延々と流している無節操さにあきれているのです。もちろん、それはまきさんのおっしゃる通り、視聴者がそういう番組を求めているからだと言われればそれまでです。しかし、そうだとすれば、もっと高尚なものをあこがれるようにと人々を導く責任は一体誰にあるのかということを考えてしまいます。

 もっとも、こういう言い方をしてしまうと、いかにも自分は高尚で、占いを求める人は下等な人間だと軽蔑しているように取られてしまっても不本意です。確かにわたし自身はクリスチャンの立場として占いに否定的であるとしても、占いを求める人間の気持ちについてまでも、否定しようとは思いません。占いに頼る心は必ずしも一攫千金を狙ったバラ色の人生を送るためばかりとはいえません。こつこつと誠実に生きる生き方を捨てて、一気に幸福を手に入れようとして、占いで人生を先回りしようと言うものでもないでしょう。そうではなく、この人生に立ちはだかる様々な苦しみや悩み、運命や不条理としか思えない束縛から逃れたいと思う気持ちからでしょう。もちろんん、そうした苦しみが人間の努力によって簡単に解決されるのであれば、誰も占いに頼ったりはしません。人間の手を越えたミステリーな世界だからこそ、神秘的な占いに力を借りようというものです。

 そういう意味では、占いを求めて生きる人は、そもそもが人生の成功者ではなく。何らかの意味で人生の苦しみを味わった人たちなのです。そう言う人たちの人生の苦しみや人生に対たいする洞察を決して軽い物とはみなしてはならないと思います。

 キリスト教が救いを提供しようとしているのも、こうした人生の苦しみや試練とは無関係ではないはずです。そういう意味では、占いに頼ろうとしている人たちの悩みや苦しみに、教会はもっと耳を傾けなければならないはずです。

 さて、クリスチャンとして、どういう点で占いに対して否定的な見解をもっているのか、その点を明らかにしておく必要があると思います。もし、当たるか当たらないかという問題であるとすれば、それはまきさんのお友達が言うように統計学の問題になってしまいます。統計学的に占いが当たるのか当たらないのか、そんな研究をしたことがある人がいるのか、わたしにはわかりません。もしかりに、統計学的に占いの言っていることが正しいとしても、それでも、クリスチャンは占いに対して否定的な態度を持っています。

 その理由は、先ほども述べたとおり、占いを必要としている根本の問題がどこにあるのかということと深く関わっているからです。それは、先ほども述べたとおり、突き詰めて考えるならば、人間の救いの問題と深く関わっているからです。わたしは先ほども言いましたが、占いに頼る人を決して浅はかな人だとは思っていません。むしろ、誰よりも人生の苦しみを味わい、悩みの中にいる人たちなのだと思います。そうであればこそ、その問題を本当に解決できるお方が誰であるのか、クリスチャンは考えるわけです。クリスチャンにとって、人生に関わるようなこういう救いの問題こそ、まことの神の前に持ち出して、解決を願うべきだと考えるからです。

 実は占いを禁じる命令は旧約聖書の中にすでにはっきりと記されています。もちろん、クリスチャンにとってはそれだけで占いに頼らない十分な根拠となります。しかし、もう少しその聖書の個所が命じていることに耳を傾ける必要があるのです。

 その占いを禁じる言葉とは申命記13章2節以下に記される言葉です。そこで一番問題となっているのは、偽預言者や夢占いをする者の言葉が、当たっているか外れているかということではないのです。そうではなく、そのことを通して、まことの神への信頼が揺らいでしまうかどうかということなのです。神を信じ続けさえすれば、占いに頼ってもいいということではありません。二人の主人に兼ね仕えることはできないのです。むしろ、心を尽くし、魂を尽くして、どんなときにも主である聖書の愛し、信頼しているかどうかそのことが大切なのです。占いに限らず、そのような神との信頼関係を損なうことに人間が没頭することに対して、クリスチャンは警戒しているのです。

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