BOX190 2006年1月11日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「金持ちは救われない?」 東京都 K・Mさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのK・Mさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聞いています。きょうはイエス・キリストの言葉について、わたしも質問したいことがあり、お便りしました。

 それはマルコによる福音書10章25節に記されているイエスの言葉です。

 『金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』

 わたし自身はきっとこの個所に出てくる人よりもお金持ちではないと思いますが、しかし、豊かな国、日本に住んでいる以上、回りの国々の人から見て、きっとお金持ちなのだと思います。というより、先進国に住む人はみんなお金持ちだと思います。

 そうすると、いったいアメリカや日本に住む経済的に富んでいるクリスチャンは、ほとんど救われるのが難しいということになるのではないかと思います。

 イエス・キリストはここに登場する金持ちに命じたように、全財産を売り払って貧しい人々に施すことをすべてのクリスチャンに願っているのでしょうか。

 イエス・キリストがここで言おうとしている真意を教えていただければ幸いです。およろしくお願いします。」

 K・Mさん、お便りありがとうございました。確かに、日本の教会に集っているクリスチャンは決して資産家ばかりではありませんが、貧しい国々の人から比べれば、ずっと豊かな暮らしをしていると思います。

 以前、わたしがアメリカに留学していたとき、アフリカから来た留学生と一緒にテレビのクイズ番組を見ていると、その学生は「もう、心臓がとまりそうになるから、見るのをやめよう」と言い出したのです。その番組では正解が出ると、司会者が目の前で解答者にドル札を渡していたのです。そうはいっても、司会者のポケットから出てくるくらいのお札ですから、目玉が飛び出るほどの金額ではありません。しかし、彼の国では、その一枚のお札があれば十分暮らしていけるくらいの金額だったようです。自分たちの国がいかに豊かな国であるのかということを知らされた瞬間でした。

 さて、金持ちというのをどこから金持ちというのか分かりませんが、少なくとも、イエス・キリストの言葉を文字通りに受け取るとすれば、金持ちが神の国に入る可能性はほとんどないと言ってもよいくらいです。なぜなら、らくだが針の穴を通るなどということはありえないことだからです。実際、このイエスの言葉を聞いた弟子たちも大変驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったほどです。

 一般的に言って、当時のユダヤ人にとって富は神からの祝福と考えられていたからです。もちろん、不正な手段で得た富はそのかぎりではありません。

 旧約聖書にも富を神の祝福と考える教えがいくつか見受けられます。たとえば、申命記28章には神の戒めに従う時に、神からの豊かな祝福が約束されています。その祝福には地の実りも家畜も含まれています。また旧約聖書の箴言には「主を畏れて身を低くすれば富も名誉も命も従って来る」とさえ言われています。

 ですから、神からの祝福を受けて富んでいる者でさえ、神の国に入れないとなると、他の者たちは推して知るべしということになってしまいます。

 そこで、このイエスの言葉をすこしでも和らげようとして、様々な解釈の試みがなされました。まず有名なのは、「針の穴」というのはエルサレムへ入るための小さな門をさしているのだという解釈です。その門を通過するためには、人は荷物を積んだラクダを置いて、自分ひとりで入るか、あるいはラクダから荷物を降ろせば、ラクダだけなら何とか入れるというのです。

 しかし、実際のところ、「針の穴」と呼ばれるような門がエルサレムの城壁に実在していたという証拠はどこにもありません。

 別な人々は、イエスがおっしゃったのは「ラクダ」ではなく「縄」だというのです。ギリシャ語で縄は「カミロス」、ラクダは「カメーロス」です。この二つの単語は一文字違いですが、後の時代になると耳から聞いただけではほとんど区別できなくなるくらい発音が似てきました。ですから、もともとは「縄が針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスはおっしゃったというのです。確かに、縄なら針の穴を通る可能性がないでもありません。

 しかし、イエスが最初から「ラクダ」ではなく「縄」とおっしゃったのなら、それを聞いていた弟子の反応は説明がつきません。やはり、イエス・キリストが「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃったからこそ、「それでは、だれが救われるのだろうか」と弟子たちも驚きを隠せないのです。

 では、そうすると、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは「金持ちは絶対に救われない」ということなのでしょうか。決してそうなのではありません。イエス・キリストは驚く弟子たちをい見つめて、続けてこうおっしゃっているのです。

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 この言葉こそ、弟子たちに対するイエスのお答えであり、同時に最初にイエスに対して「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と膝を屈めて尋ねて来たこの金持ちの問いに対する答えでもあるのです。神の前には絶対に救われないということはないのです。しかし、罪ある人間の側で何かをすれば救われると思うなら、それはらくだが針の穴を通るほど不可能なことなのです。

 イエス・キリストはおっしゃいました。

 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 では、神はどのような方法で救いを成し遂げようとされていらっしゃるのでしょうか。神は人間の不可能をどのようにして可能にしようとしているのでしょうか。

 この話が記されているマルコ福音書の10章には、それに対する答えも暗示されています。10章の32節から34節では、イエス・キリストはご自分の十字架と復活について弟子たちに予告されました。さらに、同じ10章の45節では「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」とおっしゃられ、ご自分が身代わりの死を遂げようとおっしゃっています。

 つまり、十字架の上で死なれたイエス・キリストの身代わりの死を通して、人間の不可能が可能となるのです。イエス・キリストはこのことをおっしゃりたかったのです。

Copyright (C) 2006 RCJ Media Ministry All Rights Reserved.