聖書を開こう 2005年10月27日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 神聖なものの扱い(マタイ7:6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「豚に真珠」と言えば、クリスチャンでなくてもよく知っている諺です。しかし、この言葉がイエス・キリストのおっしゃった言葉だということを知っている人は案外少ないかもしれません。ましてこの言葉の本来の意味を正確に言える人は、クリスチャンの中でも少ないかもしれません。せいぜい「ネコに小判」「馬の耳に念仏」と同じ意味ぐらいにしか考えられていないようです。

 きょうはこのイエス・キリストのおっしゃった言葉についてご一緒に考えてみたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 7章6節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 とても簡潔な言葉ですが、前半は犬が、後半は豚が出てきます。一般に良く知られている「豚に真珠」という言葉は、実は「犬に神聖なものを」という言葉とセットで出てきているということです。そこで、まずはここで言う犬とは何か、豚とは何をさすのかということが問題になります。それと同時に「神聖なもの」や「真珠」が何を意味するのか、それについても考えてみる必要があります。

 まず、「神聖なもの」や「真珠」についてですが、ここではあえて「神聖なもの」と「真珠」とを区別して考える必要はないものと思われます。「神聖なもの」も「真珠」も、同じことを言い表していると考えてよいでしょう。「真珠」に関して言えば、のちにマタイ福音書の13章に出てくるイエスの神の国の譬えでは、真珠は神の国の教えとして引き合いに出されています。また旧約聖書の箴言の中では「真珠」は神が与えてくださる知恵に譬えられています(箴言8:11)。いずれにしても、それは神が人間に与えてくださった教えに関係していると考える事ができます。実は同じような言葉はユダヤ教にもあって、そこでは「宝物は誰にでも見せるべきではなく、律法の言葉も同様である」といわれています。はやりそこでも、神の言葉である律法が宝物に譬えられているのです。ですから、ここではキリストの教え、福音の真理をさして、「神聖なもの」「真珠」といっていると考えてよいでしょう。

 それから犬にしろ、豚にしろ、どちらもここでは文字通りの動物が問題なのではありません。それは日本の諺にある「ネコに小判」や「馬の耳に念仏」に出てくる「ネコ」や「馬」が、動物を引き合いにしてある種の人間をさしているのと同じです。

 聖書の世界では、一般的には犬と言うのはあまり良いイメージの動物ではありませんでした。今日のように人間の手助けをする忠実な動物というイメージよりも、むしろ野良犬や山犬のような汚く危険なイメージの動物でした。死体の血を舐めたり(王上22:38)、自分で吐いた物のところへ平気で戻ったり(箴言26:11)、廃墟と化した町に住み着いて荒廃のシンボルになるような、そういう動物です(エレミヤ9:10)。

 そこで、新約聖書では、例えばパウロはフィリピの信徒への手紙3章2節では、福音の意味を失わせるような教えを述べ伝える人々を「よこしまな働き手」として「あの犬ども」と呼んでいます。また、黙示録22章15節では「すべて偽りを好み、また行なう者」として「犬のような者」(原文では「犬」)が一番に挙げられています。そして、何よりも主イエス・キリストご自身がシリア・フェニキアで異邦人の女性を「小犬」と呼ばれた例もあります。

 「豚」という動物もユダヤ人にとっては汚れた動物でした。「豚」や「いのしし」はひづめが分かれていても反芻しない動物であるために、清くない動物として食べることが禁じられていました(レビ記11:1-8)。また預言者イザヤの言葉には「豚を食らう者」は終末の世界の園に入ることが許されないとあります(イザヤ66:17)。さらに、新約聖書ではペトロが「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」という諺を引用して、一度キリスト教の救いを確信しながら、再び離れていってしまうような人たちを「豚」に譬えています。実はこのペトロの第2の手紙2章の22節では、そのような者たちを「犬」にも譬えています。

 「犬」にしろ「豚」にしろ、ここではあえて二種類の人たちを区別さしているのではないでしょう。汚れた者たちを犬や豚に譬えているのでしょう。もちろん、どういう人をさして「汚れた者」とイエス・キリストがお考えになったのかは、慎重に検討されなければなりません。

 というのは、この言葉の直前で、イエス・キリストは先週学んだとおり、「裁いてはならない」ということをはっきりと教えられたからです。もちろん、先週お話しましたが、イエス・キリストはどんな判断も評価もしてはならないとおっしゃったわけではありません。もしそうだとすれば、きょうのイエス・キリストの言葉は矛盾したことになってしまいます。なぜなら「神聖なもの」を与えるのに、誰が「犬」や「豚」であるかを判断することがここでは求められているからです。

 ところが、キリスト教を伝道するということは、予め誰が「犬」であるか、誰が「豚」であるかということを決めてから伝道するわけではありません。もしそうだとすれば、わたしたちは神のように、選ばれた者とそうではない者を知っていなければならないからです。この「犬」や「豚」と言う言葉を、安易に選ばれた者とそうでない者と同一視してはなりません。むしろ、復活の主イエス・キリストが「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とおっしゃったように、あらゆる人々にキリストの福音を宣べ伝えなければならないのです。

 しかし、それでもなお、イエス・キリストは犬に聖なる者を、豚に真珠を与えるなとおっしゃいます。

 このことは先ほど引用したペトロの第2の手紙2章22節がヒントになるかもしれません。そこでは、キリスト教を一旦受け入れたものの、そこから離れていく者たちを犬や豚と呼んでいたのです。つまり、クリスチャンであることが前提の言葉です。

 この主イエス・キリストの言葉をだれか異邦人か異教徒に対する言葉と思わないで、自分自身に対する言葉として耳を傾けることが大切なのです。キリストの福音を受け入れた今、いっそうその宝を大切に受け止めているか、そのことが信じる一人一人に問われているのです。

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