BOX190 2005年1月12日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「献金の相場は?」 ハンドルネーム困ったさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム困ったさんからのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生、こんにちわ。番組での回答をいつも興味深く聞かせていただいています。

 さっそくですが、わたしの問題にお答えいただけないでしょうか。わたし自身の問題と言うより、実はわたしが聞かれて、何て答えたらよいのか、困ってしまった問題です。

 先日、教会に行き始めたノンクリスチャンの友人から、こんなことを聞かれました。それは献金についての質問です。

 その友人は、礼拝の時に集められる献金には相場みたいなものがあるのかということを気にしていました。その友人の観察によると、だいたいの人は数百円から千円ぐらいが相場だろうというのです。どうしてそれがわかったかというと、献金袋に捧げる時の音でそう思ったというのです。

 わたしは、その友人の「相場」という言い方に嫌な感じがしましたが、人が捧げる献金の音を側耳を立てて聞いていたことにも不愉快な思いを隠せませんでした。しかし、考えても見れば、初めて行った礼拝で献金袋が回ってきたら、だれでも、ドキドキしながら周りを気にするのは仕方のないことかもしれません。

 ありふれた答えかもしれませんが、聖書に書いてあるとおり「各自が自分で決めたとおり、喜んで捧げることが大切だ」「相場なんて発想は献金にない」とだけ答えておきました。彼は「ふーん」と言っていましたが、納得はしていなかったようです。

 こういう場合、何て答えたら適切なのでしょうか。教えてください。」

 ハンドルネーム困ったさん、メールありがとうございました。初めての礼拝に行けば誰でも戸惑うことがあるでしょうし、キリスト教信者がいだくのとは違ったところに興味が行ってしまうということは当然あることだと思います。立場を変えて考えれば、わたしたちだって、とんちんかんな質問をお坊さんにしたり、神主さんにしたりすることがあるかもしれません。どんな宗教であれ、信仰にかかわる事柄は、それを信じている人ではないと理解できないことはいくらでもあると思います。

 困ったさんが説明した通り、確かにクリスチャンが献金について考える場合、しばしば、引き合いに出されるのはコリント信徒への手紙です。厳密に言えば、そこに記されているのは「礼拝献金」についてではなく、どちらかと言えば、信者同士の助け合いのための「募金」に近いかも知れません。それでも献金について学ぶ時には、大切な原則を教える個所として、しばしば引用される個所です。その一つ、コリントの信徒への手紙二の9章8節にはこう書いてあります。

 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」

 そういう意味では確かにここから「相場」と言う発想は出てきません。誰か他の人が「いくら」と決めるようなものでもありませんし、みんなで相談して「これくらい」と決めるものでもありません。それこそ一人一人が自分の信仰で判断し、決めるものです。しかも、それは「不承不承」捧げるようなものであってはいけません。「喜んで捧げる」というのが献金です。

 「献金」という言葉は、「お金を献げる」と書きますが、神様が見ていらっしゃるのは、献げられたお金そのものではありません。

 聖書に記された二つの実例から見ててみたいのですが、その一つはカインとアベルが献げた供え物の話です。カインもアベルもそれぞれ、時がきて神に献げ物をします。カインは畑の産物から、アベルは飼っていた群れから、それぞれに献げ物を献げます。しかし、カインは退けられ、アベルは受け入れられます。この二人の違いはどこにあるのでしょう。もちろん、献げたものの種類は違います。しかし、二人を区別する違いはそれではありません。神がご覧になったのは供え物そのものではなくて、その供え物を通して現れた献げ主その人をご覧になっていらっしゃるのです。

 そういう意味で、献金はお金を献げているのではなく、それを通して、その人自身が自分を神にささげているといっても良いかと思います。

 もう一つの例は、やもめの献金の例です。エルサレムの神殿に献金をする大勢の人々の中から、イエス・キリストはたったのレプトン銅貨二枚を献げた一人のやもめこそ、誰よりも多く献げたのだとおっしゃいました。金額という面だけを見れば、このやもめが献げた献金は最低だったでしょう。しかし、このわずかな献金額の背後には、このやもめが神を信頼する絶対の信仰があったのです。イエス・キリストはそれをご覧になっていらっしゃったのです。

 以上の二つの例からも明らかなとおり、だれもお隣りさんと比べていくらがふさわしい相場かなどと、献金について言うことは出来ないのです。そういう考え方自体が、キリスト教の献金になじまない発想なのです。

 さて、今まで述べてきたことは、きっと困ったさんがそのお友達に言ったこととほぼ同じことだと思います。しかし、そのお友達は、わたしの話を聞いても、きっと同じ反応するのではないかと思います。それはある意味で仕方のないことかもしれません。神を信じていない人が、神への信頼を表す献金を献げるということを考えること自体、難しいことだからです。けれども、造り主である真の神を信じるようになれば、献金のことも、心からそう思えるようになるのではないかと思います。

 わたしたちの献金を献げる姿勢、それは結局のところ神への感謝と信頼と言うことになると思います。

 最後にもう一箇所だけ聖書を引用しておきます。コリントの信徒への手紙一の16章2節です。ここにもエルサレムの貧しい兄弟たちに対する募金がうったえられています。

 「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。」

 ここからもたくさんのことが学べますが、一点だけ取り上げます。

 「各自収入に応じて」とあります。献金が献身のしるしだとしても、持っているもの全部を献げることが最高の献身なのではありません。定率10%というのでもありません。それぞれがよく考え、自発的に力に応じて献げるところに、献金がただのお金の問題ではなく、その人自身の信仰の姿勢の表れでもあると言われる理由があるのです。

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