聖書を開こう 2004年11月11日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 終わりまで励まし合おう(1テサロニケ4:15-18)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 古今東西、人間は死という問題と向き合って来ました。死が生み出す悲しみに対して、色々な宗教や哲学が慰めや励ましを与え、人々の悲しみを和らげて来ました。
 では、キリスト教を信じる人にとって死とは何なのか。…それはもはや恐れるに価しないもの、悲しむ必要のないものなのでしょうか。確かに結論を先に言ってしまえば、クリスチャンにとって死はもはや力を失っています。復活のキリストの圧倒的な勝利によって、 死は取るに足らないものになってしまいました。
 しかし、そうであったとしても、死に行く人とのしばしの別れは、辛く悲しいものです。地上に残された者にとっては、やはり慰められ、励まされることが大切です。特に今学んでいるテサロニケの教会では、信仰者の死という問題は教会員にとって動揺するほどの大きな問題でした。
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 4章15節から18節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

 テサロニケの教会でおこった事件は、当時の教会にとっては大変大きな問題でした。その事件と言うのは、終わりの日、終末の時を待たずに、死んでしまうクリスチャンが現れ始めたということでした。というのも、当時のテサロニケの教会の人たちはみな、自分たちが生きている間に世の終わりがやって来るものと言う期待を抱いていたからです。それほどに終わりの時が近いと、誰もが確信を抱いていたのです。
 ところが、その期待に反して、キリストの再臨を待たないで世を去ってしまうクリスチャンたちが現れ始めたのです。こういう事態はまだ生まれたてのテサロニケの教会にとっては予想外の事態です。放っておけば、信仰が揺らいで崩れてしまうかもしれません。
 パウロはこの問題…「既に眠りについた人たちについて」注意深く取り上げています。
 先週も学んだとおり、パウロはこの問題を取り上げるに当たって、先ず一番初めにキリストの復活の事実に訴えて「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」と述べます。キリストが再び来てくださる世の終わりの時に、まだこの地上に生きているか、それともすでにこの世を去って死んでいるか、そのことで動揺する必要はないとパウロはテサロニケの教会員を励まします。
 そう述べてからパウロは、キリストの再臨の日に起る具体的な事柄について述べています。それが先ほどお読みした個所です、
 この個所は新約聖書の中でも珍しいほど、キリストの再臨とそれにまつわる様々な事柄を述べています。
 たしかに、同じ時代に流行った「黙示文学」と呼ばれるユダヤ教の文書の中には、こうした世の終わりの出来事についてのこまごまとした興味ある話がたくさん出てきます。しかし、その興味本位な黙示文学に比べれば、パウロは非常に簡潔にその日の出来事を述べます。
 しかも、パウロがこのことを記している意図は頭と終わりに明確に述べられていますから、そこに記されたパウロの意図以上のものをここに求めることは出来ません。
 パウロが「主の言葉に基づいて」とわざわざ断って伝える最後の日の出来事は、三つの内容からなっています。キリストの来臨、眠りについた者たちの復活、そして、そのとき生き長らえている者たちが引き上げられるという三つの内容です。それぞれに掘り下げれば興味がつきない内容です。
 たとえば、キリストの来臨に際しては「合図の号令」や「大天使の声」「神のラッパ」などがそれに伴うと言われています。いったいそのような合図は象徴として描かれているのか、それとも、実際の情景なのか、わたしたちには興味が尽きません。
 あるいは、神学者たちが「携挙」(携え挙げる)という特殊な言葉で呼んできた、終わりの日に生き長らえる信徒たちの身に起きる事にも、わたしたちは少なからず興味を覚えることでしょう。かの日に生き長らえている者たちは、死者のうちから甦ったクリスチャンとともに空中に引き上げられて、キリストにお目にかかるというのです。このようなことについて記されるのは、パウロの書簡に他に例を見ないことですから、なおさら興味をそそられます。
 しかし、パウロがこれらのことを書き記したのは、世の終わりに起る出来事を詳しくい描こうとしてではありませんでした。むしろ、4章15節に述べられているように「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」…このことをテサロニケの教会の人々に悟らせようとしたのでした。
 キリストの再臨を待ち望みながら、亡くなっていったクリスチャンには希望がないのではありません。キリストの再臨とともに甦り、そのとき生きてキリストの再臨を迎える人と同じように主にお目にかかることができるのです。
 だからこそ、先週学んだ個所では、パウロはこう述べていました。

 「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」

 パウロの関心は終わりの日に起る出来事の詳細なデータにあるのでは決してありません。そうではなく、パウロは一人の牧師として、動揺するテサロニケの教会員たちの信仰を励ますことにあるのです。

 そこで、パウロは終末の日の出来事について、これ以上こまごまとしたことを書くのはやめて、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」と結びます。
 パウロはただパウロ一人でテサロニケの教会の人々の動揺を鎮めようとはしません。互いに励ますことによって、今の時の動揺を乗り越えるようにと期待しているのです。
 世の終わりまで、わたしたちの信仰の道のりがあとどれくらいあるのかはわたしたちにはわかりません。しかし、この信仰の道のりを互いに励ましあいながら歩んでいくこと、このことの大切さを思います。躓き倒れそうになるとき、終末の希望を伝える聖書のことばによって励ましあいましょう。

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