聖書を開こう 2004年9月16日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 父が子に対するように(1テサロニケ2:9-12)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本のプロテスタント教会の中では、信徒が牧師のことを呼ぶときに、「先生」という尊称つけて呼ぶことが普通に行われています。もっともこれはキリスト教会の伝統と言うよりも、日本人の普通の意識なのかもしれません。日本では教える立場の人や医師や弁護士、国会議員のように指導的立場にある人のことを「先生」と呼ぶ慣わしがあります。
 それに対して、信徒同士でお互いを呼びあう時には、相手を兄弟姉妹として意識的に扱うことが多いように思います。これは日本人の感覚と言うよりも、聖書の伝統によるところが大きいと思います。
 では、牧師が信徒たちのことをどう意識しているかというと、羊飼いと羊の関係で意識していることもあれば、もちろん、一人の信徒として、相手を兄弟姉妹として意識することもあります。
 今取り上げているテサロニケの信徒への手紙を読んでいると、この使徒であるパウロとテサロニケの教会の信徒との関係はもっといろいろな呼ばれ方で意識されています。すでに学んだところだけでも、パウロはテサロニケの教会の信徒にとって、幼子のようであったり、母親のようであったりしています。きょうこれからお読みしようとしている個所では、さらに父親というイメージも登場します。
 
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 2章9節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」

 きょうの個所でも、パウロはテサロニケの教会員たちの記憶に訴えかけて筆を進めています。

 「兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう」

 すでに2章の初めでも、パウロはテサロニケで体験した苦しみや辱めについて、テサロニケの教会の人たちの記憶に訴えかけています。それらの苦しみや辱めはどちらかと言うと教会の外部からの妨害によってもたらされる宣教の苦闘と言うことができると思います。
 それに対して、きょうお読みした個所でパウロが述べている自分たちの「労苦と骨折り」というのは、そうした教会の外部からもたらされるような種類のものとは違ったものです。
 具体的には「夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えた」労苦と骨折りです。使徒としてのパウロの務めは神の国の福音を伝えることですから、福音の宣教で日夜を費やすことは当たり前のことでしょう。しかし、パウロは福音宣教に日夜を問わず邁進したというのではなく、夜も昼も働きながら、福音を宣教したと言うのです。つまり、福音宣教という使徒としての本来の務めに加えて、自分の生活を支えるために日夜働きながら福音宣教の業に励んだと言うのです。それというのも、パウロは「だれにも負担をかけまい」としたからです。
 もちろん、この個所から「今でも福音の宣教者は自活すべきだ」「福音宣教以外の職業と兼業すべきだ」という結論を短絡的に導き出すべきではないでしょう。もしそれが福音宣教者のあるべき姿であるとすれば、それをさして「労苦と骨折」というのはおかしなことです。当たり前のことでないからこそ、「労苦と骨折り」なのです。その労苦と骨折りは誰にも負担をかけまいとするパウロたちの気持ちから出たことです。
 もっとも、フィリピの信徒への手紙の4章16節を読むと、テサロニケで福音宣教に励むパウロの窮乏を支えるためにフィリピの教会員たちは何度も物を送ったと記されています。ですから、文字通りに誰からの援助も断ったという訳ではありません。ただ、テサロニケの教会の中では特別な配慮から労苦と骨折りを進んで引き受けたのでしょう。
 このようなことをパウロが書くのは、決してテサロニケの教会の人たちに恩着せがましく自分の働きを吹聴するためでないことは明らかです。むしろ、先週のところで学んだように「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願った」と記す、パウロの子に対する母親のような愛情から出ていると考えるべきでしょう。
 一方でパウロは母親のような深い愛情をもってテサロニケの教会で働いたことを振り返っていますが、また、同時に福音を宣べ伝えるに当たって、父親のようでもあったと記します。

 「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。」

 「あなたがた一人一人に呼びかけて」というのは日本語に翻訳する際の意訳です。パウロが父親のように振舞ったのは、「あなたがた一人一人に呼びかけた」と言うことではなく、「励まし、慰め、強く勧めた」という点で父親らしい態度で臨んだのです。福音を述べ伝えるということは結局はその人が神のみ心にそって生きる人生を歩めるようにすることです。しかし、ただ単に「神の御心にそって歩むように強く勧めたのでした」とは言わずに「励まし、慰め、強く勧めた」という点で、パウロの福音宣教の働きは父親のようであったと言われるのです。父親には子供に対して強く勧める力強い態度も必要ですが、同時に目的へと向かって子供を励まし力づけることも必要なのです。パウロはそういう意味でテサロニケの教会の信徒にとって父親のようでもあったのです。神が御自身の国と栄光にあずからせようと招いてくださっているのですから、この神の御心に応えて歩むことができるようにと励まし、力づけることの大切さを教えられます。

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