聖書を開こう 2004年9月9日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: テサロニケでの振る舞い(1テサロニケ2:1-8)

 手紙を書くというのは、その時々の必要に応じて、用件をできるだけ簡潔に書くものです。差出人と受取人との間でお互いに了解されている事情や状況にはできるだけ触れずに書いたとしても、受取人は差出人の意図を取り違えると言うことはありません。
 しかし、手紙が書かれたときから何百年も経ってしまうと、手紙が執筆された時に両者の間でわかりきった事柄も、時代の隔たりの中でわたしたちには意味が取れなくなってしまうものもあります。
 きょう取り上げようとしている個所は、事情を知らない現代のわたしたちが読むと、パウロが自分に対する非難について、一生懸命自己弁護しているようにも取れる個所です。
 
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 2章1節から8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」

 パウロは今までこの手紙の中では、主にテサロニケの教会のことを取り上げて、そのことで神に感謝を捧げてきました。
 きょうから入る2章では、今度はテサロニケの教会のことではなく、そこで宣教活動をした自分たちのことが主に語られます。

 開口一番、パウロはテサロニケでの働きを「無駄ではなかった」と随分控えめに表現しています。積極的に表現しようと思えばこんな風にも言えたはずです。
 「兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは大変有意義でした。」
 パウロは自分たちの働きを買いかぶらないように、遠慮気味に表現しているのでしょうか。いえ、むしろ、パウロはこの世的な目から下される評価を意識して、自分たちに対する否定的な評価に対して自己弁護しているようにも見えます。

 確かに次の節で述べられているとおり、テサロニケへ来る前に伝道したフィリピでもパウロ一行は苦しみと辱めを受けたのです。フィリピでどんな苦しみや辱めを受けたのか、フィリピの教会に宛てて書いたパウロの手紙の中には、それについての回想がありません。しかし使徒言行録に記されたフィリピ伝道の様子を読むならば、それが具体的にどんなことを言っているのかよくわかります。フィリピではパウロ一行は投獄され、裁判を受ける権利も無視されて、密かに釈放されると言う屈辱を受けたのです。
 そういうことに加えて、テサロニケでも激しい苦闘を経験しました。その激しい苦闘についても、使徒言行録の中に詳しく記されている通りです。
 フィリピでの苦しみと辱め、そしてテサロニケでの激しい苦闘と聞けば、誰もがそのような伝道は無駄であると想像するのは無理もないことです。
 それに対して、パウロはテサロニケに足を踏み入れたことが無駄ではなかったといいます。
 では、どういう点で無駄ではなかったのかというと、先ず第一にパウロたちの福音宣教の働きへの意欲が意気消沈してしまうのではなく、かえって神によって勇気づけられたと言うこと、そして、第二にその勇気をもって福音を語ったということ、この二つの点でテサロニケへ足を踏み入れたことは無駄ではなかったのです。むしろ無駄どころか、勇気を与えられて福音を語る結果になったのですから、ほんとうは有意義なことであったと言っても良かったくらいです。

 さて、3節以下に並べられるパウロの言葉を聞くと、何か自分自身の立場を弁護しているようにも聞こえてきます。
 「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません」「わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした」
 こんな言葉を聞けば、まるでパウロたちに対して、その宣教の動機を疑ったり、詐欺まがいの掠め取りをしているかのような噂でもあったように思えてきます。たしかに、パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中ではこうした自己弁護の言葉を述べてきました。そして、コリントの信徒への手紙を読むと、明らかにパウロに対する否定的な評価がコリント教会の一部の人たちにはあったことが想像されます。
 しかし、テサロニケの教会の場合には、そうしたパウロたちに対する批判的な言動は見受けられませんから、この個所は必ずしも消極的な自己弁護の言葉と理解する必要はないでしょう。
 批判を受けて、自分がテサロニケでどのように振舞ったかを弁明しているのではなく、むしろもっと積極的に自分の働きを語っていると理解した方がよいでしょう。
 それは使徒の権威を帯びた者としてではなく、小さな幼子のように、また子供を育てる母親のように振舞ったというのです。まるで、子供を育てる母親がただ子供への愛からだけ犠牲的に自分を捧げて子供のために尽くすように、パウロもテサロニケ伝道での振る舞いがそのようなものであったと言うのです。

 そのような振る舞いの根底にあるものについて、パウロはこう述べています。
 「あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです」
 どんな伝道の働きにも、この伝道の働きの対象となる人たちへの愛がなければならないことを教えられます。愛する者であるがゆえに、福音を伝えるのでなければ、ほんとうに神の愛、神の福音は伝わらないのではないでしょうか。

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