聖書を開こう 2004年9月2日(木)放送    聖書を開こう宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄(ラジオ牧師)

山下 正雄(ラジオ牧師)

メッセージ: 模倣と模範(1テサロニケ1:6-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本語の「学ぶ」という言葉は、今では「勉強する」とか「学習する」と言う意味に使われていますが、もともとは「まねぶ」つまり「真似をする」という意味から来ているそうです。何かを学ぶということは、先人たちの何かを真似て自分のものにするということだったのでしょう。
 しかし、何かを真似るとか、何かを模倣するというのは、今ではあまり歓迎されない風潮があるかもしれません。オリジナリティのあるものが尊ばれ、二番煎じの真似事は、猿真似だと非難されます。
 ところが、聖書の世界では「真似ること」、特に「模範に倣うこと」は良いことだとされています。
 きょう取り挙げる個所では、テサロニケの教会の信徒が使徒たちの模範に習い、また自分たちも他のキリスト者たちの模範となった様子が描かれています。
 
 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙一 1章6節から10節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

 前回取り上げた個所では、テサロニケ教会のことで捧げられたパウロたちの感謝の思いが述べられていました。それは1章2節から5節まで、一続きの文章で一気に述べられたものでした。きょう取り上げる個所はその続きの文章ですが、内容から判断すると、テサロニケの教会のことで抱いた感謝の思いがここでも続いています。
 さきほどお読みした6節の言葉は、前回の最後の言葉であった5節からごく自然に繋がっています。福音がただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによってテサロニケの人々に伝えられた時、テサロニケの教会の人たちはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となったというのです。
 では「使徒たちに倣う者」「主イエス・キリストに倣う者」というのは、一体どういう点がそうなのでしょうか。御言葉を受け入れた、という点で模範に倣ったと言うことでしょうか。もちろんそれだけに留まるものではありません。ただ単に御言葉を信じ受け入れたと言うのではなく、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって」というところがここでのポイントです。
 御言葉を信じ、福音を受け入れると言うことは、時として非常な困難が伴うものです。それは一大決心を迫られるような場面に直面することもあります。家族の反対に遭うこともあります。周りの者たちから予想外の強い抵抗に遭うこともあります。時にはあからさまな嫌がらせを受けることもあるでしょう。しかし、そのような苦しみの中でくじけてしまわないこと、それが、使徒たちの模範であり、主イエス・キリストが示してくださった模範です。
 しかし、その模範に倣うということは、ただ、困難の中で悲痛に堪えて御言葉を信じ、福音を受け入れると言うことではありません。パウロはもう一つの重要な要素を書き加えています。それは「聖霊による喜び」を伴って御言葉を受け入れているかどうかということです。福音を受け入れると言うことは、悲痛に顔を歪めながら、苦しそうな面持ちでかろうじて福音に手を伸ばしてそれを掴むと言うようなものではありません。むしろ、そのような苦しみの中ででも、心のうちには喜びが溢れていることです。いえ、福音を信じると言うことは、様々な困難や苦しみを克服して、心の平安、心の喜びを持つことにほかなりません。
 その点で、テサロニケの教会の人々はパウロたちや主イエス・キリストに倣う者となったのです。パウロはそのことを喜び、そのことを神に感謝しているのです。

 しかし、テサロニケの教会の人々は、ただパウロたちや主イエス・キリストを模範として生きる生き方をしたというに留まるものではありませんでした。そういう生き方がまた、他の信者の模範となった言うのです。

 「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」

 マケドニア州はテサロニケやフィリピの町がある州です。そしてアカイア州はその南に位置し、コリントの教会がある州です。キリスト教会がヨーロッパに伝道をされてから、まだ間もない時に、早くもテサロニケの教会はそれらの諸州の模範ともなるような教会に成長していたのです。もちろん、それには多少の誇張はあるかもしれません。しかし、パウロの目から見れば、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範であり、いたるところで評判となっているのです。
 その模範的な生き方には、三つのことが含まれています。その三つのこととは「偶像を離れて神に立ち帰ること」、「生けるまことの神に仕えるようになったこと」、そして「御子イエス・キリストが天から来られるのを待ち望むようになったこと」の三つです。
 ここでは、キリスト教を受け入れることが、偶像を離れて神に立ち帰ることと表現されています。今までの生き方にキリスト教を加えるのではなく、今までの生き方と決別して真の神に立ち帰ること、偶像と真の神の二足の草鞋を履くのではなく、一方から他方へ完全に移り変わることとして表現されています。
 さらに、神に立ち帰ることは、神に仕えることとして表現されています。キリスト教の信仰をもつというのは、新たな神が自分たちのために仕えることを期待することではありません。そうではなく、わたしたちが神に仕えることなのです。それは自分という偶像を捨てて、神の御心に従うことでもあります。
 前回取り上げた個所には「希望の忍耐」という言葉がありましたが、それは具体的には「御子が天から来られるのを待ち望む」その希望であり、忍耐なのです。テサロニケの教会の人々はその希望をもって忍耐強く歩んでいたのです。
 しかし、パウロはこのようなテサロニケ教会の模範的な生き方をただ賞賛しているのではありません。そうではなく、そのように教会を導き支えてくださっている神に感謝し、神を褒め称えているのです。
 私たちを整えてくださる神に目を注ぎ、神にいっそうの感謝を捧げましょう。

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