キリストへの時間 2004年11月14日放送    キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

泥谷 ちひろ(山田教会牧師夫人)

泥谷ちひろ(山田教会牧師夫人)

メッセージ: 見せかけのもの

 おはようございます。

先日おいしそうな物を見つけ、買い求めました。よくあることではあるのですが、何と上手に、(発泡スチロールのトレイでしたが、赤に高級感のある模様入り、)結構詰まっているように見せかけ、外から見たら分りませんでしたが、中側の底はでこぼこに作った トレイでした。正直に普通のトレイのままで、一並びでもよいから、食べ終った後のおいしいだれもすんなり食べられるようにしてくれたらどんなによいだろうかと思いました。このような経験をされた方はよくあると思います。上辺がよい人間に見えても中身がでこぼこで薄っぺらな人にはなりたくありませんね。

 イエスさまの時代にパリサイ人といって、律法を守ることについて大へん厳しい人たちがいました。パリサイ派というのはヘブル語で“分たれたもの”という意味があり、古代ユダヤで、律法の形式を重んじた保守派の人のことで、形式主義者、或いは偽善者を代表するものと言われています。

 「キリスト教」というのはイエス・キリストの死後言われるようになったのであり、イエスさまがおられた頃は、イエスさまもユダヤ教の教えのもとにありました。イエスさまは神の子であり、ただ普通の人間とは異なる特別の権威を持っておられた方でしたが、パリサイ派の人たち、即ちパリサイ人はイエスさまの行動を監視して、訴えるためにいちいち非難しました。ユダヤ教の安息日と戒律というのは、安息日にはよいおこないであっても、どんな仕事もしてはならないとか一日に何キロ以上歩いてはいけないといったりしたことがありましたから、安息日にイエスさまが病人を癒された時、この時と言わんばかりにそれを非難しました。

 パリサイ人は一日に何回お祈りをするとか、決められた分の献金をするとか、表立ったことではきちんとして、見せびらかしていましたが、内なる信仰や、誠実さ、清さ、正義、また憐れみなどに関しては全くといってよい位出来ていませんでした。特にイエスさまに対して、何か律法に反していることはないかを見つけ出そうとして躍起になっていました。

 私たちは、見せかけのものではなく、本物の中身のある人間になりたいものです。

 美しいきれいなお庭のある立派な家に住んでいても、中に住んでいる人は、いがみ合い、疑い合い、果ては妻が夫を、又は夫が妻を殺したり、子どもを殺したりというような怖ろしい事件を何度も聞きました。又、美しくお化粧をし、着飾っても、その人の中身は憎しみの心、欺瞞に満ちた心でいっぱいといったそのような怖ろしいことも聞きます。

 恵まれた環境にあって生活出来る人は、神さまからいただいた恵みに相応しく歩み、喜んで助けの必要な人に手をさしのべ、又、そんなに恵まれた環境にいなくても、心の中は本当に清く、美しく、富んでいる人を妬まず、神さまのみ前に、ありのままの姿でお仕えしたいと思います。

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