BOX190 2004年10月27日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「愛とは何ですか」  ハンドルネーム・ミゼルさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ミゼルさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも放送を楽しみに聴いています。さて、きょうはとても初歩的な質問で申し訳ないのですが、わからないことがあってメールしました。
 キリスト教は「愛」の宗教と言われていますが、確かに聖書には愛についての教えがたくさんあるような気がします。イエス様も一番大切な戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つを挙げています。 それは本当に素晴らしいことだと思う反面、では、愛とは何なのだろうと考え始めると、いったいどうすることが愛なのか、わからなくなってしまいます。
 たとえば、貧しい人に着るものや食べるものを与えることは愛なのでしょうか。確かにそうだと言えるかもしれませんが、ただの甘やかしのようにも思えますし、また、自分はほんとうにその人のことを思っていなくても、着る物や食べる物を与えることぐらいできるような気がします。甘やかしでも偽善でもない愛をもって人を愛することなどできるのでしょうか。いったいどうすることが愛なのでしょうか、教えてください。よろしくお願いします。」

 ミゼルさん、メールありがとうございました。「あい」と言う言葉は、「あいうえお」の最初の二文字ですから、言葉としては簡単です。しかし、深く考えれば考えるほどミゼルさんのおっしゃるとおり、どうすることが愛することなのかわからなくなってきます。
 ちなみに、手元にある広辞苑で「愛」という単語を引くと、こう出ています。

@親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。
A男女間の愛情。恋愛。
Bかわいがること。めでること。大切にすること。
C愛敬(あいきよう)。愛想(あいそ)。二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」
Dこのむこと。「―好」「―唱」
Eおしむこと。「―惜」「割―」
F〔仏〕愛欲。愛着(あいじやく)。渇愛。強い欲望。
Gキリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。

 確かに「愛」と言えば今では@かAの意味、つまり「広く、人間や生物を思いやること」か、あるいは「男女間の愛情」の意味に使われることが圧倒的に多いように思います。
 前にもお話したことがあるかもしれませんが、16世紀にキリスト教の宣教師たちが日本にやって来て、キリスト教の「愛」を日本語にどう訳すかということで、とても苦労したそうです。というのは、その当時「愛」と言えば「男女間の愛」のことしか表さなかったからです。そこで、宣教師たちはラテン語の「愛」と言う言葉を「御大切」と訳したそうです。なるほど「愛」という言葉よりも「御大切」と言った方が、今でもイメージしやすいかもしれません。相手のことを大切に思う気持ち、また、相手のことを大切に思う気持ちから相手を大事に扱うこと、これが「愛」であると言ってもよいかもしれません。
 しかし、「大切に思う」、「大切に扱う」と言うことが、具体的にどういうことなのか、これも実際に何か行動に起こす時には漠然としているかもしれません。

 聖書が教えている「愛」、特に「隣人愛」について、もし、わたしなりに表現するとすれば、こんな風になるのではないかと思います。

 「相手を大切に思う」ということ、これは先ほどの「御大切」と同じなのですが、キリスト教の愛はその愛の対象となる相手を「神のかたちに造られた存在」と信じるということが第一のポイントだと思います。
 愛の対象が誰であれ、何故その人が大切なのか、何故その人を大切に扱わなければならないのか、それは、その人が神のかたちに造られた尊厳ある存在だからです。
 キリスト教的に「愛する」ということは、相手にある神のかたちを重んじるということなのです。
 具体的にどうすることがその人を愛することになるのか、と言うことを考えるのではなく、何をするのであれ、自分の行動が、その相手の人間としての尊厳を重んじているのかどうか、そのことを行動の評価の基準とすること、それが愛なのではないかと思います。

 ミゼルさんが例を挙げてくださった、貧しい人に対してどうあることが愛することなのかということで言えば、もちろん、貧しいと言うことが直ちに神のかたちに造られた人間の尊厳を著しく損なっているとはいえないでしょう。しかし、もし、それが生命の危機に瀕するほど衣食住に事欠いているとするならば、食べ物や着る物を分かち与えることは必要な愛に違いないと思います。しかし、それ以上に貧困の原因となっているもの、神のかたちに造られた人間が人間の尊厳をもって生きられなくなっている原因そのものを取る除くに至るのでなければ、その愛は全うされたと言えないかもしれません。
 しかし、そうはいうものの、一人の人間が貧困の原因を取り除くためにできることは限られています。いえ、一人の個人では結局何も出来ないかも知れません。もしそうだとするならば、結局、人間はキリスト教の愛をもって人を愛することは出来ないと言うことなのでしょうか。そうではないと思います。
 貧困の例でいえば、たしかに、その原因を取り除くのでなければ意味がありません。着る物、食べる物を与えるだけの対症療法ではほんとうに愛したことになりません。しかし、貧困の原因を完全に取り除き、その人が神のかたちを持った人間として尊厳ある生き方をしたときにだけ、ほんとうにその人のことを愛したのかというとそうではないはずです。貧困の原因が完全に取り除かれるのは、愛の結果なのであって、大切なのはそこへ至るまでの継続的な関心なのです。
 愛は結果を生み出すものです。しかし、結果を生み出すまでの相手への継続的な関心もまたキリスト教の愛ということができると思います。その継続的な関心は、その相手がひと時たりとも神のかたちとしての尊厳さを軽んじられないようにとする関心だからです。

 肝心なことは、何をするにしても、そのことを通して、相手の人間としての尊厳を大切に思い、関心を払いつづけていくことなのではないでしょうか。そして、その結果として、貧困のない世界が生まれ、あるいは差別のない世界が実現し、誰もが自分の存在に満足できる幸福な世界が誕生するのではないでしょうか。

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