BOX190 2004年10月20日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「何故人だけが自殺するのでしょう?」  K・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はK・Sさん、男性の方からのご質問です。Eメールでいただきました。お便りをご紹介します。

 「山下先生。僕は今すごく悲しい気持ちの中にいます。親友が自殺未遂を図ってしまったからです。幸い発見が早かったので大事には至りませんでした。
 彼女からはいっぱい元気をもらったのに、その彼女が死を選ぶとはどうして?という思いでいっぱいです。
 先生、人はどうして自分で死を選ぶのでしょうか。犬やネコが自殺した話は聞いたことがありません。どうして人間だけが自分で自分の命を絶ってしまうのでしょうか。教えてください」

 K・Sさん、メールありがとうございます。お友達が自殺を図ってしまったということですが、とてもショックな出来事でしたね。もう、そのお友達はよくなられたのでしょうか。ご本人も苦しい思いの中で自殺することを選んだのでしょうね。その苦しい思いから解放されて、生きる元気を取り戻すことができるようにと、心からお祈りします。

 さて、お便りの中にもありましたが、どうして人間は自殺するのでしょう。他の動物が自殺を図ることがあるのかどうか、わたしは調べたことがありません。果たして人間だけが自殺という道を選ぶのかどうかはわかりません。以前、何かのエッセイでネコも自殺をするという文章を見かけたことがありますが、もちろん、それはエッセイですから、根拠のある話ではありません。
 わたしにとっては、果たして人間だけが自殺を図る動物なのかどうか、その事の真偽はそれほど重要ではないような気がします。きっとK・Sさんにとっても同じだろうと思います。ほんとうに知りたいことは、そのお友達がどうして死を選んでしまったのか、それを何とか思いとどまらせることが出来なかったのか、と言うことではないかと思います。
 死というものには、避けがたいものがあります。寿命によって命を失うことは、人間にはどうにもすることが出来ません。現代医療では治すことができない致命的な病にかかれば、それをどうにかすることも出来ないでしょう。
 しかし、自殺は防ぐことができるのではないか、そう思うのは当然でしょう。周りの家族も友人も、そのことが心にかかり思い悩むのではないかと思います。K・Sさんの気持ちもきっと同じだろうと想像します。

 もちろん、K・Sさんのお友達がどんな方なのか、わたしにはわかりません。それを一番良く知っていらっしゃるのは、K・Sさんご自身だろうと思います。ですから、そのお友達の方がどうして自殺の道を選んでしまったのか、わたしには答える事が出来ません。また、どうやったら防ぐことが出来たのか、それもお答えすることが出来ません。

 自殺を図る人には、それぞれの事情があることでしょうから、一般論で論じることも出来ないような気がします。ただ、すべての自殺を志願する人がそうだとは言えませんが、大きな要素だと思うことが一つあります。
 それは、人間は自分自身の価値を信じることが出来なくなる時に、生きる気力を失ってしまうと言うことです。
 では、どういうときに人は自分自身の価値を信じることができるのでしょうか。それは誰かのために役に立っていると思えるときです。人から誉められること、大事にされることがなければ、自分自身の価値を見失ってしまうか、自分の存在価値に自信が持てなくなってしまいます。それは、愛されることがなければ、生きる気力を失ってしまうと言っても良いかと思います。
 しかし、こういう言い方をしてしまうと、自殺者を出した家族にはまるで愛がなかったかのような誤解を与えてしまうかもしれません。そうではありません。
 私自身が聖書から教えられていることはこうです。
 それは、人は愛し、愛されるために生まれてきたと言うことです。なぜなら、イエス・キリストが最も大切な生き方として教えてくださったことの一つは、自分のように隣人を愛する生き方だからです。つまり、隣人として人を愛し、隣人として人から愛されるために人は生まれてくるということです。このことがあるからこそ、人は自分の存在の価値を信じつづけることができるのです。もちろん、それに先立って、神から愛されているという自分自身の存在の価値の大きさを知ることが大切なことは言うまでもありません。
 ただ、残念なことに、罪に染まったこの世界では、誰もが愛し愛されたいと願い、また事実、そう生きるように努力をしていても、結果として自分の存在価値を信じられなくなるようなネガティブな影響に飲まれてしまうということです。それでも、多くの人はそれを乗り越えることができるだけの愛情を受け取って、自分の存在の価値を信じつづけています。自分の存在の価値を感じることができるので、自分で死のうとは思わないのです。  けれども、もし、自分の存在の価値をどこにも見出せなくなったとしたらどうでしょう。そのような人生は針のむしろで過ごすよりも辛いに違いありません。
 では、いったいどこから人間は自分の存在価値を見失ってしまうようなネガティブな影響を受けてしまうのでしょうか。その大きな要素は、「何かができる」ということに評価の基準を置きすぎているということから 来ているような気がします。何かができるから大事にされる、何かが出来ないからぞんざいに扱われるとすれば、自信を失うことの方が多くなってしまうことでしょう。なぜなら、誰でも、できることよりも出来ないことの方が多いからです。
 確かに、人は人の役に立つ人を好みます。しかし、人の役に立つと言うことは、何かができるということとは違います。何かが出来る人が人の役に立つ人で、逆に何も出来ない人は何の役にも立たない人なのではありません。たとえ何も出来ないとしても、その人の存在自体がほんとうは人の役に立っているということを是非知って欲しいと思います。何かができるから愛されるのではなく、存在があるからこそ愛されるのではないでしょうか。

 結局のところ、身近な人を大事に思うこと、その人の存在の価値を十分に認めること、またその気持ちをいつも表現すること、そのことが大切なのだと思います。誰もが自分の存在の価値を信じることができる世界を作り出すことが、神がわたしたちに求めている生き方ではないかと思います。

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