BOX190 2004年7月28日放送     BOX190宛のメールはこちらのフォームから送信ください

山下 正雄 (ラジオ牧師)

山下 正雄 (ラジオ牧師)

タイトル: 「信じるとは」  千葉県  M・Wさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオをお聴きのあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのM・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、はじめまして。いつも番組を楽しく聴かせていただいています。
 わたしは学生クリスチャンで、まだ信仰を持つようになってから、そんなに長い期間がたってはいませんが、大学生になってから色々な教派のクリスチャンに出会う機会が多くなりました。それはそれで刺激的で楽しいのですが、今まであまり考えても来なかったような事柄に気がつかされたり、自分としてはあいまいにしておきたい部分に、無理やり意見を求められたり、困惑してしまうことがしばしばあります。
 その中でも、山下先生に是非とも聞いてみたいことがあって、お便りしてみました。
 その問題と言うのは、キリスト教と科学に関わる問題といってしまえば、それまでのことかもしれません。そして、それはきっと古くからある問題に違いないと思います。
 実は、クリスチャンの友人の中に、とても保守的な考えの人がいて、進化論に絶対の異議を唱える人がいます。もちろん、わたしとしても、創造か進化かという問題には興味があります。しかし、その友人の極端なことは、創造論の正しさは科学的に証明できるといって譲らないことです。わたしは、何も科学的に証明されなくても創造論を信じていれば十分であるように思っています。
 さて、その友人とは正反対の友人が別にいます。彼は非科学的なことを信じることは、信仰の本質ではないとする理性派のクリスチャンです。彼の口癖は『理性を犠牲にした信仰は信仰ではない』ということなのです。たとえば、奇跡は起りえないし、それを信じることが信仰の本質ではないと主張します。しかし、わたしとしては保守的な友人に対する違和感と同じくらいの違和感をその友人に感じてしまいます。
 信じると言うことは、科学によって証明されたり、非科学的だからといって退けたり、そういう問題なのでしょうか。山下先生ならどうお考えなのか、ご意見をお聞かせください。よろしくお願いします。」

 ということなんですが、M・Wさん、はじめまして。お便りありがとうございました。M・Wさんのお話を聞いていて、自分が学生時代のことを思い出してしまいました。わたしも、学生時代に色々な教派のクリスチャンに出会い、色々な意味で刺激を受けました。そして、まさに、M・Wさんがおっしゃったような両極端の友人がわたしにもいました。そして、その人たちから見れば、わたしのような信仰はどっちつかずの中途半端ななまぬるい信仰と思われていたに違いないと思います。
 この問題は科学か信仰かという問題ではなくて、結局は信じるということをどう捉えているのかということに記するような気がします。

 それでは、後半に行く前にここで一曲聞いていただきたいと思います。

 ==放送では、ここで1曲==

 きょうはM・Wさんから二人の極端な立場のお友達のことを伺いました。確かにこの二人は両極端のように見えるのですが、よくよく考えてみると、基本的な考え方は共通していると思います。それは、聖書に記された事柄が一見して非科学的に思われるということを、どちらの立場の場合も認めているという点です。保守的な立場の友人の方は、非科学的に思えるものを科学によって論証を試みようとする立場のわけです。つまり、科学の常識を覆して、自分たちの信仰の正しさを科学的に証明しようとする立場です。
 他方、理性派の信仰を標榜する友人の場合は、現在の科学で非科学的と言われるものについて、それを認めた上で、保守的な人たちの場合とは違って、科学の常識を覆すのではなく、自分たちの信仰の常識の方を覆して、科学と矛盾しないように信仰の内容を再理解しようとする立場です。
 結局、両者の出す結論は、天と地ぐらい両極端に違いますが、目指しているものは同じで、科学と矛盾しない信仰、理性に叶った信仰というものに他ならないのです。
 保守的な立場の人たちも、もし、創造論を科学的に証明することに成功すれば、それは科学と矛盾しない科学的な理性的な信仰と言うことになるわけです。
 同じように、信仰の理解の方を変更した理性派の人たちも、結局は科学と矛盾しない信仰ということになるのです。
 おそらく、M・Wさんがどちらの立場に対しても違和感を感じてしまったのは、この点なのではないかと思いました。
 どちらの立場も、自分たちがしようとしていることの根本的な動機は同じです。それは科学とキリスト教信仰をどう調和させるのかという問題に答えようとしている点です。その動機は科学時代に生きる信仰者にとって、痛いほど理解できるものです。
 しかし、科学と言うものにあまりにも顔を向けすぎて、どちらの立場も、信仰の本質を見失っているような気がするのです。そもそも信仰と言うものは、科学によって非科学的だと退けられたり、科学によって合理的だとお墨付きをいただいたりするものなのでしょうか。
 たしかに、創造論と進化論は科学上の議論でもあるように見えます。奇跡の問題も科学と信仰が絡み合っている問題に見えます。けれども、それらの信仰上の問題を科学の名のもとに解決することがキリスト教信仰に求められているのだとすれば、信仰を科学に閉じ込めてしまうことになるのではないでしょう。
 確かに、理性派の友人がおっしゃるように、わたしたちは理性を犠牲にしたがむしゃらな信仰が求められているわけではありません。奇跡の問題にしても、奇跡は常識的に起りうることだなどと考えた上で、信じているわけではありません。決して理性を無感覚に押し殺して、奇跡を信じているわけではありません。わたしたちにさえ、信じがたい事柄であることを認めつつ、しかし、そのことを信じ、そのことを通して与えられるメッセージを聞き取ろうとしているのです。
 さらに、最後に付け加えるとすれば、どちらの立場に立つにしても、人間の罪深さやそこからの救いについて、科学的に証明することなど出来ないことなのですから、その肝心な事柄を聖書が語るがままに受け入れているのと同じように、創造論の問題も奇跡の問題も、聖書が語るがままに受け入れるのでなければ、聖書が語る救いの問題も正しくは理解できなくなってしまうのだと思います。

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