2019年9月16日(月) 箴言1章 立ち帰るのを待たれる神


「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。」(箴言1:23)

 「箴言」をはじめとして、知恵の書と呼ばれる「詩編」や「コヘレトの言葉」などは皆、「主(ヤハウェなる神)を畏れることは知恵の初め」であると教えます(詩111編10節、箴1章7節、コへ12章13節など)。「神を畏れる」ということは、神を目の前に置き、神の語られる御言葉に耳を傾けて、御言葉に従って生きることです。しかし、人間は心が頑なな者ですから、神を無視し、自分の思いや感情に流されてしまうことがよくあります。

 かつて神の民とされたイスラエルの人びとも、たびたび神に心を閉ざし、耳を閉ざして、自分の意のままに生きました。その民に対して神は繰り返し語りかけられました。神の民であったイスラエルの人びとにとって、「神を畏れる」とは、神が彼らと結ばれた契約を思い起こして生きることだからです。

 今、「神を畏れる」とは、御言葉に耳を傾けて、神の御前に立ち帰り、神が遣わされたイエス・キリストを信じることです。そうすれば、また、そのためにこそ、神は私たちに聖霊を注いで、御言葉を聞いて歩むことができるように整えてくださいます。