2019年9月9日(月) エゼキエル1章 主が私たちと共におられる


わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。…主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ。(エゼキエル1:1,3)

 私たちは人から忘れ去られて孤独に置かれたとき、希望を失い、生きる意欲さえ失ってしまいます。まして神から見捨てられたと感じたときはそれ以上でしょう。

 神の民イスラエルは、背信の結果、北の大国バビロンに攻め滅ぼされ、かの地に捕囚されていました。神は私たちを見捨ててしまわれた、もう私たちは御声を聞くことも栄光を仰ぐこともできない、と絶望していたのです。

 預言者が神の御声を聞き、主の栄光に接したのは、そうしたときでした。人びとは、「主の栄光」はエルサレムの神殿にしか住まわれないと考えていました。しかし、主の神殿に臨在される主の栄光が捕囚の地にあった惨めな民の上にも臨まれたのです。それは大きな励ましでした。

 私たちにも厳しい試練が臨むと、神はわたしを見捨ててしまわれたと希望を失い、主を離れ、信仰を離れてしまうことがあるかもしれません。しかし、御子イエスを遣わしてくださった恵みの神は、子としてくださった私たちを見捨てることは決してありません。ゆえに私たちは信仰の望みをもって地上の生涯を歩み続けることができます。