2018年11月6日(火) エレミヤ18章 神の主権にしたがう


「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」(エレミヤ18:6)

 預言者エレミヤを陥れようと謀ったエルサレムの同胞たちは、自分たちが真の信仰者であることを信じて疑いませんでした。「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない」(18節)と、彼らは既存の特権に甘んじて、エレミヤの語る批判的な言葉に耳を貸そうとしませんでした。その彼らのためにも執り成してきたエレミヤですが、悪をもって善に報いる彼らの態度にやりきれない思いで神の裁きを願うようになります。

 真の神を畏れる心があるならば「我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたい」(12節)とは思わないはずです。うわべでは決められたことを確かに守っているように見えても、心の中では自分自身が主人として振る舞っている限り悔い改めは実を結びません。

 陶工が粘土で器をつくり、それを自分で壊すように、造られたものは造ったものの意のままです。神の主権の下にあるイスラエルもまた同じです。心の中を主はご覧になっています。「道と行いを正せ」(11節)。その御声を畏れて聞く者こそ神の民です。