2018年9月9日(日) マタイ18章15-20節 主はいつも共にいてくださる


「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

 主イエスは、罪を犯したときに、いさめて事の本質を理解させ、崩れた関係を元に戻すための順序を教えておられます(15〜17節)。

 先ず、2人だけで忠告します。これは相手の名誉に対する愛の配慮です。これが聞き入れられない場合、「2人ないし3人の証言によって立証される」と定められているように複数で対応して、個人的な忠告でないことを相手に悟らせます(申19章15節)。それでも聞き入れられない場合、教会として取り扱います。教会として、愛をもって戒め、諭します。それも聞き入れられないときには教会の交わりから排除されます。この手続きには、主の忍耐と愛が満ちています。

 「2人または3人がわたしの名によって集まる」とは、罪の赦しを求めて集まるということにほかなりません。教会にとって、兄弟を1人でも失うことは、大いなる悲しみであり、損失だからです。私たちの主は、罪の赦しのために十字架につけられました。悔い改めた兄弟を得るために私たちが祈るとき、その主が「わたしもその中に」共にいてくださると、約束されているのです。