2018年1月2日(火) 創世記1章 夕べがあり、朝があった


初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。(創世記1:1-5)

 神は最初の光を創造されて、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。そのあと、この命の光がしみとおっていくようにして、世界の基が整えられていきます。そして、「夕べがあり、朝があった」と六度繰り返され、最後は満たされた安息に至ります。「夕べがあり、朝があった」その順序が問題です。

 朝をスタートとして、夜に向かうと考えるのが世の常かもしれません。人間の生涯もしかりです。夜明けの少年期を駆け抜け、日の光の満ちる昼の最盛期を過ごし、哀愁のただよう黄昏時をもって、死という人生の夜にたどりつく。しかし、聖書においては、夜で終わる物語はないのです。夕べの後に、朝がくる。混沌の夜があっても、必ず希望に満ちた朝がくるのです。

 新約聖書でも同じです。主イエスが十字架で死なれた時、真昼なのに真っ暗になったと記録されています。世界を暗闇が覆いました。しかし、その十字架の絶望の夕べのあとに、復活の命の希望の朝が来たのです。

 この1年もそのようにして、どのような夜があろうとも必ず光の朝へと至るのです。