2017年9月14日(木) 2コリント1章 思いやる心こそ


神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。(2コリント1:23)

 コリント訪問が、何かの理由で延期されている。その事情の詳細をここで述べることはできません。パウロの訪問計画が、そもそも「軽はずみ」「人間的な考え」だと非難する声も、パウロの耳に届いているようです。しかしパウロは言います。訪問の延期は、「あなたがたへの思いやり」なのだ、と。あなたがたに対して寛大でありたいからだ、と。自分の命にかけて誓ってもよいとまで断言します。

 ここでのパウロのように、神の名を呼んで誓うことを特異な目的で行う人がいるでしょうか。このような不思議な作法で誓いを用いることは、驚き以外の何物でもありません。ここに、伝道者・牧会者パウロのコリント教会への愛と献身が如実に現れています。パウロの強い口調が、教会に対する彼の痛むほどの愛から出ていることは、明らかです。

 パウロはコリント教会の信仰を「支配」したくありません。教会の喜びに仕える「協力者」でありたいのです(24節)。支配的な牧会、独善的な教会指導はパウロと無縁です。謙遜と愛に満ちた牧会者、真の羊飼いの場所を死守すること。教会が思いやりの集いになる秘訣がここにあります。