2017年4月10日(月) イザヤ53章 主イエスが担った苦しみとわたし


彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。(イザヤ53:3)

 神は預言者イザヤの口を通して、やがて遣わされるメシアの姿を、苦難の中を歩む僕としてお示しになりました。その姿は、目を疑うほどに惨めな姿です。父なる神の御許で持っていた栄光の姿を打ち捨てて、僕の姿で現れたメシア。多くの痛みを負い、病の苦しみを共感してくださる救い主。その姿を目にする者は、まるで自分とは関わりのない人のように、このメシアを軽蔑し、無視します。

 主イエスが歩まれた道、それは苦難の道でした。罪の世界に降ってこられ、罪と悲惨に苦しむ私たちと共に、主イエスは苦しみの中を歩んでくださいました。私たちが罪の世界で味わう悲しみ苦しみで、主イエスが味わわれなかったものは一つもありません。主イエスこそ苦しむ私たちの真の理解者です。

 主イエスは罪のないお方でしたが、十字架の苦しみをお受けになったその姿は、イザヤを通して語られた苦難の僕そのものです。苦しみを受けるこのお方の姿こそ、実は、やがて最後の審判で裁きを受ける「わたし」の姿です。主イエスの十字架の苦しみのうちに、「わたし」の身代わりの姿を見出す人は幸いです。