2016年3月17日(木) ヨブ5章 そうして、言葉は暴力になる


わたしなら、神に訴え
神にわたしの問題を任せるだろう。
見よ、幸いなのは
神の懲らしめを受ける人。
全能者の戒めを拒んではならない。
彼は傷つけても、包み
打っても、その御手で癒してくださる。(ヨブ5:8,17-18)

 ヨブがなぜ嘆くのか。どうやら友人エリファズは理解したようです。それは、神を見失い、神の御業にゆだねることを忘れているからだ、と。

 そこで、エリファズは、神の偉大さと、その御業の憐れみ深さとについて、そして、その神にゆだね生きる者の幸いについて、熱心に教え聞かせます。それらの言葉は、おそらく神を正しく語っているものでした。しかし、そうでありながら、それらの言葉のいずれもが、どこか攻撃的です。エリファズ自身が神の正しさを背負っているかのような興奮が感じられます。そうして、言葉は暴力になりました。神を正しく語ることが、神を正しく示すことには必ずしもなりません。そこに、語る者自身の正しさへの畏れと、語りかける者への柔らかい愛がないならば。「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(8節)。そのようなエリファズの高揚が、ヨブの悲しみを深めます。

 私たちが神の正しさを語るのは、互いの違いを強調し、高みから説得するためでしょうか。いえ、その正しさのもとに、共に在ることを、同じ目線で分かち合うためです。繊細な愛の想像力をもって。