2015年12月6日(日) 詩編115編 わたしたちこそ、主をたたえよう


偶像を造り、それに依り頼む者は
皆、偶像と同じようになる。(詩編115:8)

 古代社会では、戦争はそれぞれの国の守り神どうしの戦いと考えられていました。バビロンへ捕囚となったイスラエルの人びとは、国の守り神が負けたことになり、バビロン人から「彼らの神はどこにいる」(2節)と笑われました。

 しかし詩人は、諸国の神々は偶像にすぎないと、言い切ります。敗戦は神のご計画の上であって、自分たちへの刑罰かもしれない。これによって神は、私たちに大きなことを教えようとしておられるのだ、と信仰を表明します。

 4〜8節の偶像をあざける一まとまりは、当時の慣用句として用いられたものでしょう(参照:詩135編15〜18節)。足、口、目、耳、鼻、手、喉がいくら偶像にあっても、それらは全く役に立ちません。

 そして、もっと恐ろしいことは、「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」ことです。偶像礼拝者の口は役に立たず、彼らの祈りは、天地の創造主に届くことがありません。

 「主を賛美するために民は創造された」(102編19節)のですから、きょうの主の日、「わたしたちこそ、主をたたえよう」(18節)。