2015年7月6日(月) 申命記23章 しいたげられる者への配慮をもって


隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。(申命記23:25-26)

 ここには、神の配慮に満ちた愛の命令が記されています。他人のぶどう畑に入って、果実を食べたり、他人の畑で、麦の穂を摘むようなことをすれば、日本では、たちまち警察沙汰になってしまうことでしょう。この規定は、今の日本ではとても考えられないことです。

 しかし神は、この規定を貧しい者、特にやもめやみなしごたちのことを心に留めて命じられました。詩編146編9節には、「主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」とあります。

 キリストが貧しさの中に生まれてくださったのは、しいたげられ、貧しくされた者に寄り添うためではなかったでしょうか。果たしてこの神の眼差しを私たちはどれほどもって生きているでしょうか。私たちは、教会の中でも、社会においても、この眼差しをもって、主の御心に従いたいと願います。そして、請い願います。

 神よ。全世界の為政者が、あなたを知り、しいたげられている者の側に立って、あなたの心を実践できるように、彼らを導いてください。