2014年1月2日(木)ルカ3章 悔い改め


「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」(ルカ3:8)

 バプテスマのヨハネはここで、形だけの洗礼や儀式、血筋、あるいは形だけ律法を守ることに救いの保証を得ようとする人びとを叱責しています。私たちも考えることがないでしょうか。悔い改めにふさわしい実とは、わたしが神の前に積み上げていく何か、わたし自身が神に認めていただくべき何ものかであると。

 しかし、自分自身の姿を見つめていたり、私たち自身の中にあるものを点検し続けたりしているうちは、救いがわからないのです。自分自身から一歩も出ることができないからです。

 悔い改めとは、方向を転換するということです。私たちのまなざしを自分自身からキリストに転じるのです。自分にしがみつくのをやめて、この身をキリストにゆだねるのです。わたしのために死んでよみがえられ、わたしの死を命にかえ、わたしを根本的に生かしてくださったお方を信じ、受け入れる。それが悔い改めです。私たちの人生は(新しい年の歩みもまた)、そこから確実に実りを得ていくのです。