2013年3月29日(金)マタイ26章 苦悶の祈り


そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)

 早くから死を覚悟しておられた主イエスは、それを前にして、「悲しみもだえ始められ」ました。恥辱に満ちた十字架刑です。恐れることも、弟子たちとの別れを悲しむのも、人間として当然のことです。しかし主は、祈りに祈って、御父の御心を確かめ、私たちのためにそれに従われました。

 とても耐えがたいことであったはずです。罪なく、死ぬ理由を全くもたない方、全き神の愛の中にのみ生きて来られた方が、「(怒りの)杯」を飲み干すことを命じられたのですから。それは無限の高みから底知れぬ深淵に突き落とされるようなことであったでしょう。試練の中で家族や友人が共にいてくれることが慰めとなりますが、主イエスの弟子たちは何の助けにもならず居眠りを繰り返しました。

 私たちも同じでしょう。罪を悟るのに心が鈍く、また肉体も弱いからです。 主イエスはすべてをご存じです。私たちの罪も弱さも、そして限界(何よりも罪を償う)を。まことに「十字架の外に頼むかげなき、わびしき我を憐みたまえ」(讃美歌260番)です。