2013年2月4日(月)創世記18章 希望


「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。」(創世記18:13-14)

 暑い真昼、マムレの樫の木のところで、三人の旅人がアブラハムの前に立ちます。彼はすぐに天幕の入り口から走り出て、迎え入れ、足を洗い、木陰で休息し、食事を取るように勧めます。彼はサラや僕たちに料理させます。アブラハムは、数々の料理を客人の前に並べ、そばに立って給仕をし、心から接待します。

 すると、彼らの一人が、来年の今頃、妻のサラに男の子が生まれることを告げます。それを天幕の入口で聞いていたサラはひそかに笑います。夫と妻の体は年老いて、子供の誕生の希望を失っていたからです。

 しかし、主は言われます「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と。

 人が希望を失うのは、「死んで行く」自分の力に信頼するからです。神に不可能はありません。主は、人間的な可能性にではなく、命の源なる「神の言葉に立つ信仰」を求めておられます。ここに、希望の真の根拠があります。